チエヒロ https://chiehiro.com 読んだあと、ちょっとだけ世界の見え方が変わる。各分野の専門家に聞いた"本当のところ"を、広告なしで、わかりやすく、面白く。 Wed, 21 Oct 2026 18:55:07 +0000 ja hourly 1 https://chiehiro.com/wp-content/uploads/2026/03/icon-1-150x150.png チエヒロ https://chiehiro.com 32 32 「家賃ゼロだからこそ、人生の選択肢が広がる」。無料シェアハウスが拓いた”自由人”という第3の道──月4万円・週5日休みの新常識 https://chiehiro.com/horiguchi/ Tue, 20 Oct 2026 19:10:48 +0000 https://chiehiro.com/horiguchi/

生活費の中で、いちばん重くのしかかる家賃。もし家賃がゼロになれば、働き方も、生き方も、選択肢は大きく広がります。それを形にしたのが「無料シェアハウス」です。家賃無料で住める家を地方に広げ、X(旧Twitter)では「月4 ... ]]>

生活費の中で、いちばん重くのしかかる家賃。もし家賃がゼロになれば、働き方も、生き方も、選択肢は大きく広がります。それを形にしたのが「無料シェアハウス」です。家賃無料で住める家を地方に広げ、X(旧Twitter)では「月4万円で週5日休み」という新常識を発信し続けてきたのが、アカウント「10軒の家賃無料シェアハウスやってます」の中の人、堀口尚志さん(49)です。フォロワーは約1.2万人。会社員でも、ただの無職でもない「自由人」という生き方とは何か。無料シェアハウスの仕組みと、そこで生まれる暮らし、そして堀口さんが広めたい思想について伺いました。

無料シェアハウスとは?──家賃無料、生活費は月2万〜3万円

無料シェアハウスとは、その名のとおり、家賃を払わずに住めるシェアハウスです。住人が負担するのは、光熱費や食費、Wi-Fi代といった実費だけ。切り詰めれば月2万〜3万円で暮らすことができ、実際に月2万円で生活していた住人もいたといいます。

「10万円ほど持っていけば、3か月は暮らせます。その間に新しい仕事を探してもいいし、好きなことに打ち込んでもいい」。入居を希望する人は、その家で一緒に暮らす管理人との面談を経て入居します。

住人に課される義務はありません。「住んでいる人に、こうしてほしいということは何もないんです。やりたいことが見つかったら出ていけばいいし、またお金がなくなったら戻ってくればいい」。人生をいったん立て直すための時間と場所を、家賃という負担なしに手に入れられる。それが無料シェアハウスの最大の価値です。

無料シェアハウスの元祖として知られるのが、和歌山県の山あいにある「共生舎」です。堀口さんたちが手がけた無料シェアハウスは、三重、和歌山、兵庫などへ広がり、その数は10軒を超えました。アカウント名の「10軒」は、その歩みを表しています。

無料シェアハウスで手に入る、自由人の楽しい毎日

では、家賃から解放されると、どんな暮らしが待っているのでしょうか。それは時間に追われない、豊かな地方の日常です。

田舎の庭でリクライニングチェアに座り、マグカップを手にくつろぐ堀口尚志さん
時間に追われない毎日。お気に入りのチェアで、ひと息つく堀口さん

畑で野菜を育て、海辺で釣り糸を垂らす。「小魚であれば、ソーセージの切れ端を餌にしても釣れる」といいます。釣った魚を近所のおばあちゃんにおすそ分けすると、野菜になって返ってくる。道端には1個100円の野菜の無人販売所もある。こうした暮らしなら、食費は月1万円ほどで済みます。「やりようは、いくらでもあるんです。会社で働いている人にはできないやり方ですが、自由人には時間だけはありますから」。

人とのつながりも、自由人の暮らしを彩ります。ある無料シェアハウスでは、浜辺の小屋で開かれる地元の漁師さんたちの飲み会に、住人たちが顔を出すようになりました。都会では出会うことのない人たちと、同じ時間を過ごす。堀口さん自身も、漁師さんたちとの交流を続けています。

堀口さんの過ごし方も、自由人ならではのものです。三重県にある友人のもとに、1日500円を払って泊まらせてもらい、2週間ほど滞在します。昼は一緒に釣りをして、夜は釣った魚を囲んで食事をし、語り合う。アオリイカを狙って、海沿いを巡ることもあります。2週間たっぷり遊んで大阪へ戻り、また週に1日だけ働く。会社員であれば、2週間休んで釣りに出かけることはまずできません。無職であっても、旅費や宿泊費を考えれば難しいでしょう。「でも、地方に家さえあれば、それができてしまうんです」。

山あいの道で釣り竿を構える堀口尚志さん
釣りは、堀口さんの暮らしに欠かせない楽しみのひとつ

そして、堀口さんが何より大切にしているのが「人」です。「結局は人なんです。誰もいない場所に行っても、それほど楽しくはありません。そこに人がいるから楽しい。無料シェアハウスの住人を見ていると、みんな本当に楽しそうなんですよ」。

始まりは、大きな志ではなかった

実は、無料シェアハウスの始まりは壮大な計画ではなかったそうです。

2020年ごろ、釣りのために九州へ向かう途中、岡山のシェアハウスに1泊したときのこと。偶然居合わせた大家さんが「使っていない家があるので、シェアハウスをやってみたい」と話していました。堀口さんは「それなら手伝いますよ」と応じ、一緒に家を片付けました。最初は数人が集まって過ごすだけの、遊び場のような家だったといいます。

転機は、最初の住人がやって来たことでした。手持ちのお金が少なく、「その方から月に1万、2万円をいただいても仕方がありません。もらってしまうと、むしろお客さんとして扱わなければならなくなる。それよりも管理人として住んでもらえば、私たちも訪ねやすいし、家に人がいるだけで楽しくなるんです」。家賃を取らないという判断は、理想から生まれたものではなく、目の前の状況から導き出した、ごく自然な答えでした。

その最初の住人は、ここで暮らしを立て直し、やがて仕事を見つけて巣立っていきました。のちに、今度は自分が支える番だと、シェアハウスにお米を送ってきたそうです。家賃という重荷を取り除くだけで、人はもう一度歩き出す力を取り戻せる。小さな始まりは、その手応えとともに、少しずつ大きな意味を帯びていきました。

続けるうちに形になった、「自由人」という思想。好きなことに打ち込めるガレージ起業。

「私が本当にやりたいのは、思想を広めることなんです。無料シェアハウスは、その一部であり、いちばん分かりやすい実験の場です」。

堀口さんが問い直すのは、今の社会が差し出す選択肢の少なさです。「今は、会社で働き続けるか、無職になるか。その2択しかありません。私はその間に、人生を楽しむことを軸にした『自由人』という道を置きたい。それを当たり前の選択肢にしたいんです」。大学を卒業してそのまま就職し、辞めれば周囲から責められる。結婚すれば、いよいよ辞められなくなる。「それなら、人は人生のいつ挑戦すればいいのでしょうか」。

その問いへの答えが、家賃をゼロにすることでした。住まいの費用がなくなれば、生活費は月4万円ほどまで抑えられます。それなら週2日のアルバイトでまかなえ、残る週5日はまるごと自分の時間になる。Xで発信している「月4万円で週5日休み」という新常識は、この計算に裏打ちされています。堀口さんは、アルバイトをしながらも自らを「無職」と名乗ります。「フルタイムで働いていなければ、無職と呼んでいい。その言葉がいちばん伝わりやすいんです」。

家の庭で薪ストーブの煙突の横に立ち、やかんを掲げる堀口尚志さん
薪ストーブの煙突の横で、やかんを手に

自由な時間があれば、人生は自分で設計できる。堀口さんがよく例に挙げるのが、ガレージで創業した起業家たちです。ガレージに住んで固定費をゼロにし、浮いた時間をすべて開発に注ぎ込んだ。無料シェアハウスは、その現代版になり得ます。挑戦に必要なのは、まとまった資金よりも、まず時間なのです。

根底にあるのは、「世の中はお金と仕組みで動いている」という考え方です。仕組みを変えれば、誰でも同じように自由になれる。だからこそ堀口さんは、働くことそのものを否定しません。「働くことは素晴らしいと思っています。家族を養うのであれば、会社員として働く意味はもちろんあります。結局は、選択肢の問題なんです」。

フォロワー約1.2万人を育てた、発信と仕組みづくり

無料シェアハウスが10軒を超えるまで広がった背景には、堀口さんによる仕組みづくりがありました。当初、新しい住人と出会う場となっていたのは、共生舎の周辺に集まるオンラインのコミュニティでした。その場がなくなると、堀口さんは自らXと公式LINEを立ち上げ、募集の流れを一からつくり上げます。

Xで毎日発信して関心を集め、公式LINEで入居の相談を受け、Discordで住人や希望者が交流する。入居者は現地の管理人が自ら面談して選ぶため、運営側が細かく手をかけなくても回り続けます。Xのフォロワーは約1.2万人、公式LINEの登録者は約3000人に上りました。

発信の方法は、驚くほど地道です。本で学んだ考え方を無料シェアハウスの話に置き換えて毎日投稿し、反応のよかったものをさらに磨いていく。「マーケティングとは、人が何に反応するのかを突き詰める作業です。やること自体は単純ですが、続けられる人は多くありません」。Discordには、これから会社を辞めたいと考える人の相談や、少ない生活費で暮らす知恵が集まります。堀口さんはその役割を、「会社を辞めることの、トータルプロデュース」と表現します。

▶ 堀口尚志さんのX:10軒の家賃無料シェアハウスやってます(@B9fXg0y8cyhGrHk)

「中の人」は、元プログラマーの元機械設計士

この思想と仕組みを生み出した堀口さんは、エンジニアとして歩んできた人です。20代はC++のプログラマーとして働き、27歳で友人と起業。その経験から、「商品を売る力と、利益が出る仕組みをつくる力は、まったく別のもの」だと学びました。30歳からは機械設計の道へ進み、図面集を30枚書き写すという独自の方法で技術を身につけて、10年近く設計者として働きます。のちに妻も同じ方法で図面を学び、1か月で就職を果たしました。正しい方法をなぞれば、誰でも同じ結果にたどり着ける。この再現性への信頼が、今の発信にも通じています。

転機は40歳を目前にした頃でした。実家を受け継いで家賃がゼロになり、月15万円ほどだった生活費が8万円ほどに下がったのです。「会社に通わなければ、生活費はもっと下がる。それなら働かなくても暮らしていけるのではないか」。機械設計の腕があれば、いつでも仕事に戻ることができる。退路を確かめたうえで、41歳で会社を辞めました。家賃がなくなるだけで、人生の選択肢は一気に広がる。無料シェアハウスの思想の原点は、堀口さん自身の体験にあったのです。

これから──誰もが再現できる「自由人」の教科書を

堀口さんがいま取り組んでいるのが、無職として暮らすための知恵を一冊の本にまとめることです。「働かない生き方を紹介する本は数多くありますが、具体的な数字まで書かれたものは多くありません。それでは、読んでも再現できないんです」。知りたいのは、自由な時間が何時間あり、どれだけ働き、年収はいくらで、生活費はいくらなのか。そうした数字をすべて示し、読んだ人がそのまま実践できる本にしたいと考えています。毎日書き続けてきたノートは、もう何冊になったか分からないほど。会社を辞めてから考え抜いてきたことが、そこに積み重なっています。

もうひとつの構想が、地方の家を1日500円で使える仕組みです。原点は、南伊勢の友人宅での体験にあります。2週間滞在して支払ったのは8000円ほど。それでも友人にとってはちょっとした収入になり、堀口さんは心ゆくまで釣りを楽しめて、何より一緒に過ごす時間が楽しい。「地方に家を持つ人と友達になるだけで、こんな暮らしができる。これも仕組みのおかげなんです」。

この仕組みを広げれば、空き家に人が住み、訪ねてくる人を迎えることで、住人にも少しの収入が生まれます。訪ねる人は安く滞在でき、地方には人の行き来が生まれる。全国で増え続ける空き家を生かす道にもなり得るでしょう。いずれは自ら家を手に入れて無料シェアハウスにし、一軒家を誰かが管理して、みんなが気軽に訪ねられる拠点にする。そんな構想も温めています。「面白い仕組みを、どんどんつくっていきたいんです」。

森の中で両手を広げ、空を見上げる堀口尚志さん

会社員か、無職か。その2択の間に、堀口さんは「自由人」という道を示し続けています。最後に、今の暮らしについて尋ねると、穏やかにこう語ってくれました。「生活の不安がなくなって、時間があって、さて何をしようか。そう考えられる毎日は、本当に楽しいですよ」。

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ケニアで教会を開拓する日本人宣教師・河端真理子さん(44)。国際結婚で出会ったのは、溢れる”生命力”を持つ”夫であり、同志”。 https://chiehiro.com/kawabata/ Mon, 12 Oct 2026 17:08:10 +0000 https://chiehiro.com/?p=2422

──「生命力がありますね。あのガッツは、日本の男性にはあまりないかなと思います」。ケニア人の夫について尋ねると、河端真理子さん(44)は迷わずそう答えた。日本人宣教師として、ケニアの地方で夫とともに教会を開拓し、現地の女 ... ]]>

──「生命力がありますね。あのガッツは、日本の男性にはあまりないかなと思います」。ケニア人の夫について尋ねると、河端真理子さん(44)は迷わずそう答えた。日本人宣教師として、ケニアの地方で夫とともに教会を開拓し、現地の女性の経済支援にも取り組んでいる。取材当日は大雨で数時間前から停電しており、途切れがちな回線の向こうで3歳の息子をあやしながら話してくれた。12歳で抱いた夢を追ってアフリカへ渡った一人の女性が、異国で見つけた国際結婚という幸せや人生、宣教への想いなどについて伺った。

なぜアフリカへ?──12歳で決めた「いつか、アフリカへ」

アフリカを意識したのは12歳のとき。姉と見ていたドキュメンタリー番組のエンディングで、途上国の少女が重い荷を背負い、緩やかな坂を一歩ずつ上っていく場面が映った。その瞬間、「私は絶対、アフリカに行く」と心に決めた。

とはいえ、社会人になってからは経理のOLとして働き、「行くとしても定年後に少しだけ」と考えていた。クリスチャンの家庭に育ち、本人いわく「日曜日だけ教会に行くサンデークリスチャン」だったという。人生が大きく動いたのは27歳のとき、母教会の集会で信仰に目覚め、生活が一日で変わった。それでも、仕事を辞めて人生を教会の働きに捧げる「献身」には、「経済的に不安定になるから、やりたくなかった」とためらいがあったという。そのためらいを越える転機になったのは、もう一度神様に出会うような経験だった。自分で覚悟を決めて踏み出したというより、神様の恵みに押し出されるように献身へと導かれたという。会社を辞めて西南学院大学の神学部に入学。4年間学んだ後も、フィリピンでの語学留学や海外での研修を重ね、準備に3年をかけた。

宣教師訓練で訪れたウクライナの教会で仲間と並ぶ河端真理子さん
2017年、宣教師になるための訓練で訪れたウクライナの教会で。右端が河端さん

宣教師とは──福岡の教会から、ケニアへ

キリスト教になじみのない人にとって、「宣教師」という言葉はどこか遠く聞こえるかもしれない。河端さんを送り出したのは、福岡市南区にある福岡新生キリスト教会。生まれ育った「母教会」だ。海外への宣教に力を注力していることで知られている。1968年に開拓された教会で、全国約300の教会・伝道所が加盟するプロテスタントの団体、日本バプテスト連盟に属している。バプテストは世界に広がるプロテスタントの主要な教派のひとつで、連盟の牧師養成を担うのが、福岡の人にはおなじみの西南学院大学神学部だ。

海外に派遣され、キリスト教を伝えながら現地の人々の暮らしに寄り添うのが、宣教師の役割になる。「伝えるだけでもダメ、支援だけでもダメ。その両方があって初めて意味がある」と。言葉だけでなく、自分たちも犠牲を払って行動で示さなければ、人の心には届かない。それが、ケニアで向き合い続けてきた実感だ。

福岡市南区の福岡新生キリスト教会の前で教会の人々と撮った集合写真
今年の夏に一時帰国した際、母教会の福岡新生キリスト教会の前で。青いスーツが夫のアンドリューさん

コロナ禍のケニアで、たった一人で立ち尽くした日々

2019年5月、ケニア西部の街エルドレットにある聖書学校に身を寄せた。ところが、到着から1年もしないうちにコロナ禍が世界を襲う。学校は閉鎖され、ほとんど誰とも会えないまま、ゲストルームにこもる生活が続いた。言葉の壁もある。独身の外国人女性が一人で活動することの難しさにも直面した。「このままでは日本に帰らなきゃいけないかもしれない」。そう思うほど追い詰められていた。

ケニア人男性との国際結婚──決め手は”同じ価値観”

そんなとき、友人の紹介で出会ったのが、伝道者として働くケニア人の夫、アンドリューさんだった。半年ほど交際し、2022年12月に結婚。息子も授かった。

結婚した日にケニアの実家で笑い合う河端真理子さんと夫のアンドリューさん
結婚した日、アンドリューさんの実家で

実は結婚を決めた時点で、夫の生い立ちや学歴、家族のことはあまり知らなかったという。決め手になったのは、価値観の近さだ。お金の使い方、時間の使い方、そして自分に与えられたものをどう生かすか。その感覚が驚くほど似ていた。付き合っていた頃の合言葉は、冗談半分の「ミニストリー(教会の働き)のために結婚しよう」。今も夫婦の会話の8〜9割は教会のことで、英語で交わす会話に喧嘩はあまりないという。国も言葉も育ちも違う二人を結んだのは、同じ方向を向いて生きたいという思いだった。

「こんなところを通ってきたのか」──ケニア人の夫が持つ、力強い生命力

夫の生い立ちを知ったのは、結婚後に少しずつ話を聞いてからだ。「びっくりしました。こんなところを通ってきたんだ、この人って思うくらいの貧しさで」。極度の貧困のなかで育ち、事情があって高校も卒業できなかった。両親から愛されて育った河端さんには、想像もつかない環境だった。

それでも夫は聖書学校で学び、牧師になれる資格を得て、今はオンラインで学位の取得に挑んでいる。「過酷な環境を通ってきた人の精神力は、相当なものです」。うまくいかないことばかりの現実を、忍耐でくぐり抜けてきた強さ。欲しいものがあれば、がむしゃらに取りにいくガッツ。日本では失われがちな”生命力”とは、そういうものなのかも知れないと感じた。

ケニアの田舎にあるアンドリューさんの実家で、きょうだいの子どもたちと並ぶ河端真理子さんとアンドリューさん
結婚前、アンドリューさんの実家で、きょうだいの子どもたちと。左端が河端さん、右端がアンドリューさん

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」──現実を見る知恵

ただし、それは綺麗なだけの強さではない。「言葉にすると綺麗ですけど、もうちょっと黒い感じもするんです。したたかというか、グレーっぽいというか」と河端さんは笑う。現地では、支援を求めて近づいてくる人も少なくない。同情して手を差し伸べても、ふたを開けると話がまるで違う、ということもある。そうした中で生きてきたからこそ、夫には人や状況を見極める力がある。

聖書には「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という言葉がある。ケニアで人と関わるには、ただ人を信じるだけでなく、人や状況を見極める知恵も必要だ。そうした現実を知りながら、それでも夫の芯にはまっすぐさがある。河端さんは、そんな夫の強さを知っている。

「綺麗事ではないけれど、それが神様のために使われるなら生きてくる。私は、そういうところが嫌いじゃないんです」。

夫であり、同志として──ケニアの田舎で、壁のない教会から始まった開拓

結婚直後の2023年初め、夫婦はケニア西部のキシイ地方、夫の地元の田舎で、ゼロから新しい教会をつくり始めた。最初は壁もない、柱と屋根だけの建物。その様子を知った母教会から建築のための献金が届き、少しずつ形を整えていった。

ケニアは2019年の国勢調査で国民の約85%がクリスチャンと答える国だが、教会のお金をめぐるトラブルは珍しくないという。「お金をクリーンに扱うという、日本なら当たり前のことが、こちらでは珍しいんです」。その誠実さに加えて、信頼を決定づけた出来事がある。ある母親の子どもが亡くなったとき、正式に籍を入れていなかったために、村で葬儀費用を出し合う互助の輪に入れてもらえなかった。教会が最低限の費用を支えると、「あの教会は、小さな人を見捨てない」という評判が広がった。今では子どもも合わせて約150人が集う。教会は祈りの場であると同時に、地域の困りごとを受け止める場にもなっている。夫が前に立ち、河端さんが後ろから支える。役割は違っても、目指す方向は同じだ。

ケニアの教会に大勢の人が集まる集会の様子
ケニアの教会での集会の様子

ケニアの女性支援──1日数ドルで暮らす村で、女性が稼げる仕組みを

いま河端さんが力を入れ始めているのが、現地の女性の経済支援。田舎には仕事がなく、大卒でも職に就けない。10代で母親になり、一人で家計を背負うシングルマザーも多い。アフリカ布の小物を作ってもらい日本の教会で販売する計画や、パソコンを使った在宅の仕事につなげる構想など、女性たちが自分の力で稼げる道を模索している。将来の夢は、同じ敷地に教会と孤児院、小さな学校をつくること。「夫と、あと30年は働けるよねって話しているんです」。

12歳で夢見たアフリカで、夫であり同志でもあるパートナーと出会った。停電も珍しくない土地で、河端さんは今日も、二人で一歩ずつ坂を上っている。

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「自分が変われば、世界も変わる」。人見知りだった21歳、帆士茉奈実さんがフィリピン・オーストラリア留学で「自分から動く」ことの大切さを知った理由。 https://chiehiro.com/hoshi/ Sat, 03 Oct 2026 16:23:43 +0000 https://chiehiro.com/?p=2404

「人と話すのが苦手で、実は幼い頃からずっと人見知りでした」。フィリピンとオーストラリア、2カ国で過ごした半年間の留学を経て、帆士茉奈実さん(21)が知ったのは「自分が動けば、世界の見え方が変わる」ということだった。]]>

──「人と話すのが苦手で、実は幼い頃からずっと人見知りでした」と話す、帆士茉奈実さん(21)。フィリピンとオーストラリア、2カ国で過ごした半年間の留学を経て、彼女が知ったのは「自分が動けば、世界の見え方が変わる」ということだった。貧困の現実を目の当たりにした衝撃、そして小さな行動の積み重ねが人生観を変えていった過程について、話を伺った。

「若いうちに、視野を広げたい」──と、留学を決意。

福岡県出身、現在21歳。幼稚園の頃は親の後ろに隠れて動かず、遊ぶ相手もいつも決まったメンバー。それは、少林寺拳法や中学・高校でのバドミントン部(レギュラー)といった体育会系の活動に打ち込むというアクティブな行動力と活動をする中でも、変わらなかったという。負けず嫌いな一面もあり、うまくいかないことがあると納得いくまでやり直す子どもだった。

転機のひとつは小学5年生のとき。県主催のプログラムで、風力や地熱といった自然エネルギーの話に触れ、社会問題について考えるハードルがぐっと下がったという原体験を得る。大学は北九州市立大学の経済学部へ進学。そこでもう一段、自分を変えるきっかけを探していたところに、もともと心の奥底に眠っていた「若いうちに海外に行って視野を広げたい」という気持ちに火がつき、諸々のタイミングもうまく重なり、留学を決意する。

当初は大学の交換留学制度でアメリカへ行く予定だったが、出発直前にアメリカの移民・ビザ政策の影響で学生ビザが取得できなくなり、急遽行き先をフィリピンとオーストラリアに切り替えることに。初めての海外、英語もほとんど話した経験がないまま、帆士さんの留学生活は始まった。

「これが、日本の当たり前じゃなかった」──フィリピンで目の当たりにした貧困と格差

最初の4ヶ月を過ごしたのはフィリピン。英語を母国語としない国でありながら、マンツーマン授業を含む充実した語学教育制度が整っており、ネイティブ圏へ渡る前の「土台づくり」として選ぶ留学生が多い国だ。到着してすぐに感じたのは、日本との圧倒的な差だった。現地の通信事情がわからず、SIMの手配だけでも一苦労。停電や断水は台風のたびに起こり、寮の水道が止まってお風呂に入れない日もあった。「日本じゃ考えられないですよね」と帆士さんは振り返る。一方で、物価の安さに驚かされるなど、新鮮な発見も多かったという。

夕暮れのフィリピンの街並み。バイクや車が行き交う

ただ、本当に衝撃を受けたのはインフラの弱さより、街を歩くたびに目にする光景だった。信号待ちの車の間を縫って物を売り歩く、10歳ほどの子どもたち。歩道に座り込み、小さな子どもを抱えてぐったりしている人々。地面に寝転がって暮らしているとおぼしき人の姿。「自分が当たり前だと思っていた日本の当たり前が、あくまでも日本だけの常識でしかないないことをまざまざと実感しました」。格差の現実を突きつけられた4ヶ月間は、彼女の価値観を静かに揺さぶっていった。

オランゴ島で気づいた、「自分が心を開けば、相手も開いてくれる」ということ

フィリピンの海を進む小舟

そんなフィリピンでの日々のなかで、帆士さんの人見知りを変えるきっかけになった出来事がある。観光客の少ない離島、オランゴ島を訪れたときのことだ。レンタサイクルを借り、島を巡っていると、すれ違う現地の人たちが次々と手を振ってくれた。目が合っただけで、大人も子どもも関係なく笑顔を向けてくれる。「観光地化されていない、ありのままのフレンドリーさに、衝撃を受けました」。

フィリピンで出会った子どもたち

寮生活そのものも、彼女の心に変化を与えた。年齢やルーツなどもバラバラな日本人の先輩・同期との共同生活は、「熱を出せば誰かがポカリやご飯を分けてくれる」ような、密な助け合いの場でもあった。学校には韓国、サウジアラビア、台湾、ロシアなど各国からの留学生も多く、気づけば国籍を超えた友人ができていた。今もSNSで連絡を取り合っているという。「自分がオープンでいれば、相手もオープンに心を開いてくれる。自分が笑顔でいれば、その場の空気そのものが明るくなる」。現地のスタッフから「なんであなたはいつもそんなにハッピーなの?」と聞かれたこともあった。「それに気づいてから、コミュニケーションの取り方や自分のテンションの出し方が、以前よりずっと楽になりました」。人見知りだった帆士さんにとって、これは小さくても確かな転換点になった。

自由な2ヶ月間で痛感した、「自分から動かないと1日は始まらない」という現実

フィリピンでの4ヶ月を終え、次に向かったのはオーストラリア・メルボルン。地震がほとんどないため高層のガラス張りの建物が立ち並び、都市部でも大きく手入れされた木々が生い茂る、日本とはまるで違う「綺麗さ」の街だった。ホームステイ先は中国系のご年配夫婦の家庭で、広い個室を与えられ、色々な場所に連れて行ってもらうなど、温かく迎えてもらったという。語学学校の授業は1日3時間ほどで、フィリピンに比べて自由に使える時間が格段に増えた。しかし、この「自由」こそが、帆士さんにとって新たな課題になったという。

ガラス張りの高層ビルが立ち並ぶオーストラリアの街並み

「自分から行動しないと、1日の充実度がまったく上がらないことに気づいたんです」。誰かが予定を組んでくれるわけではない。自分で1日の計画を立て、友達を誘い、行きたい場所を決めて動く──それを意識的に繰り返すようになった。フィリピンで日本人の先輩に教えてもらった「Meetup(ミートアップ)」というアプリも、この時期から積極的に活用するようになる。言語交換を目的にした国際交流系のイベントだけでなく、社会人が集まってビジネスやチャレンジについて語り合う会にも顔を出した。現地の友人と旅行に出かけることもあった。受け身では何も始まらない──オーストラリアでの2ヶ月は、そのことを繰り返し体に刻み込む時間になった。

0から計画した、初めての一人旅──1泊2日のシドニー

その集大成として、帆士さんは留学中に一度も経験のなかった「一人旅」に挑戦する。行き先はシドニー、1泊2日の弾丸旅行。飛行機の予約から2日間のスケジュールまで、すべて自分ひとりで組み立てた。オーストラリアは物価の高さにも驚かされる国で、500〜700mlのペットボトルの水が600〜700円するほど。限られた予算のなかでのやりくりも、旅の計画に組み込む必要があった。周りからアドバイスをもらいながら進めた部分はあったものの、「本当に、0から自分で決めるのは初めての経験でした」。

夜のシドニー・オペラハウスと高層ビル群

もちろん、すべてがうまくいったわけではない。計画通りに進まなかったこともあれば、「自分に足りないところ」を痛感する場面もあったという。それでも、この旅を通して得たものは大きかった。「自分で進めていくことのやりがいや大切さを、身をもって学びました」。フィリピンでの「心を開く」気づきが、オーストラリアでは「自分から動く」という行動に結びついていった──半年間の留学は、帆士さんのなかで一本の線としてつながっている。

「死ぬときに後悔したくない」。既定路線を外れて見えた生き方

留学から帰国した今、帆士さんが見つめているのは就職活動だ。「この半年間で、自分がワクワクする感覚や、こんな人生を送ってみたいという理想を知ることができました。この経験を、無駄にしたくないんです」。将来的には海外に住むことも視野に入れている。行ったことのないフィンランドに関心があるほか、暮らしてみて肌に合ったというオーストラリアも候補のひとつだ。「留学で得た英語力やコミュニケーション力、フレキシブルな考え方は、海外で暮らすうえできっと役立つと思っています」。

その根っこにあるのは、「死ぬときに後悔したくない」という一貫した価値観だ。「このまま日本で社会人生活を送っていたら、レールに沿った、波のない生き方になっていたかもしれない」。フィリピンでは、決して便利とは言えない環境のなかでも明るく生活を楽しむ人々に出会った。オーストラリアでは、平日の昼間からビーチで寝そべり、ゆったりとした時間を大切にする人々の姿を見た。「不便利さや忙しさとは関係なく、自分の人生を楽しむ姿勢そのものが、日本にいるときにはあまり感じられなかったものでした」。

公園の芝生でくつろぐ人々(オーストラリア)

人見知りだった21歳が、2カ国での留学を通して知ったのは、「自分が変われば、世界の見え方も変わる」というシンプルな真実だった。その学びは今、次のステージへと踏み出す彼女の足元を、静かに支えている。

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実は、「おせっかい」が源泉に。自然と人が集う、循環型のコミュニティーを確立する。福岡で若者の居場所をつくる26歳の、たゆまぬ挑戦。 https://chiehiro.com/asuka2/ Fri, 25 Sep 2026 15:27:41 +0000 https://chiehiro.com/?p=2394

「チャピーは、答えですよね」。悩み相談にAIを使う10代が増えるいま、福岡・警固で若者の居場所をつくる明日香さん(26)に話を聞いた。人と人をおせっかいに引き合わせ、自分は離れる。その先に見えてきた、彼女自身を支える人の輪とは。]]>

 10代の女性が生成AIを使う目的で、いちばん多いのは「悩み相談」だという。内閣府が2026年3月に公表した調査で、半数を超えた。人間関係のアドバイスについてAIを信頼していると答えた10代女性は、およそ6割にのぼる。

 夜中にひとりで開けるのが、そこしかないのだろう。気を遣わなくていい。すぐに答えが返ってくる。強く否定されない。誰にも知られない。

 その話を、福岡市の「明日カフェ」で、明日香さん(26)に向けてみた。彼女のもとには、家に帰りたくない、または帰れない10代が毎日のようにやってくる。その子たちも、おそらくAIに聞いている。であれば、それで足りるのではないか。相談相手がAIでも、いいのではないか。

 答えは、即座だった。

「私は、違うと思います」

登壇してスピーチする明日香さん

「チャピーは、答えですよね」

 答えが欲しくて来ているわけではないからだ、と明日香さんは言う。

「チャピー(ChatGPT)は、答えですよね。でもみんなは、目を見て、そばにいて、人を感じに来ているのだと思います」

 彼女自身、相談に対して答えを返すことは、ほとんどないという。

「私は基本的に、答えを言いません。その子が黙っていたら、隣に座っています。独り言のように話しかけたり、お茶を飲んだり、お菓子を食べようかと言ったり。そのあとで、信頼が生まれるのだと思います」

 答えなら、本人がもう持っている、とも言う。

「みんな、答えはもうわかっていると思うんです。人に聞かなくても、なんとなくわかっている子が多い。それでもわざわざここまで来て何かを求めるということは、温もりを求めているのだと思います。匂いとか、話している声で、安心する」

「五感なんですよ」

 これは、自分の経験から出た言葉でもある。彼女自身、オンラインでカウンセリングを受けたことがあるが、続かなかった。

「Zoomでカウンセリングを、何度か受けたことがあります。でも、何も感じないんですよね。寄り添ってくださって、1時間ほど向き合ってくださるのはわかるのですが、もういいかな、と。私はやはり、その人がそこにいる、ということが好きなんです。子どもたちも、たぶんそうなのだろうと思います」

 ただし、AIを否定しているのではない。子どもたちのほうが、すでに使い分けている、というのが彼女の見立てだ。

「使っていますよ。答えがあるものは、聞くと思います。でも、何かを求めて来ている子たちは、チャピーではなく、話を聞いてもらったり、ハグをしたりを求めているのだろうな、と」

「子どもたちも、分けているのではないでしょうか。ここまではチャピー、でもこれは人に会いたい、というふうに」

 AIに相談することと、人に会いに行くことは、対立していない。前半と後半なのだ。そして後半を引き受ける場所が、いまの社会にはあまりにも少ない。

引き合わせて、自分は離れる

 明日香さんの人との関わり方には、ひとつの特徴がある。人と人を、フランクに引き合わせるのだ。

 取材の最中にも、それは起きていた。若い男性がふらりと店に入ってくる。相談があるわけでも、用があるわけでもない。明日香さんは彼を、初対面の同行者にすぐ引き合わせた。自己紹介が始まる。しばらくすると彼は立ち上がり、その場にいた全員分の食事を作りはじめた。誰かに頼まれたわけではない。

 眼の前で、つながりが広がっていく。

 これは、日常的にやっていることだという。

「料理の注文が入って、そのあと手が空くじゃないですか。そうしたら、何かしようと思って。とりあえず常連さんに、みんなをお引き合わせするんです。子どもたちもそうですね。つなげまくっています(笑)」

 いつからそうなのかと聞くと、答えは「もともと」だった。

「小学校の頃から、みんなを引き合わせるのが好きでした。引き合わせて、自分は離れる」

「ひとりでいる人がいたら、そこにみんなを寄せるんです。そうしたら、自分は離れる」

 理由は、周りにいた友人たちにある。不登校の子、家から出られなくなっていた子、発達に特性のある子。彼女の友達には、そういう子が多かった。

「ひとりにならないでほしい、という、私の勝手な平和主義で。おせっかいなんですよ、きっと。それはずっと思っていました」

 荒れていた時期にも、これだけは変わらなかったという。

「荒れている子たちはグループで離れていくけれど、そうでない子たちとも引き合わせないといけない、というような。正義感だったのかもしれません」

 そして、この引き合わせには効果がある。そばで見ているパートナーのハルさん(26)が、それを言葉にしてくれた。

「明日香さんからつなげられると、大人たちも真摯に話を聞かざるを得ませんし、子どもたちも『この人なら話していいんだ』と思える。真剣な話ではなく、ただの会話ができるというのは、子どもたちにとっていい環境だと思います」

 本人は、もっとあっさりしている。

「私が話せないから、やっているだけなんです」

なぜ、自分より他人のしんどさを優先してしまうのか

 他人のしんどさが、自分のしんどさの原因になるからだ。

 家にも学校にも居場所がなく、カウンセリングの先生のところに通っていた時期がある。それでも、この特徴は止まらなかった。理由を聞くと、返ってきたのは自己犠牲の話ではなかった。

「見てしまいます。他の人がしんどいことが、自分のしんどさの原因になるんです。自分が楽になりたいからこそ、やっているところはあります。だから、ひとりで苦しんでいる人を見ると、もっと苦しくなっていく」

「自分の苦しみだけならいいのですが、そこに乗っかってくる苦しみが、もうしんどいので。動かないといけないんです」

 他人のためではない。自分が耐えられないから動く。彼女はそれを隠さない。

「エゴだらけです。エゴの延長線上のことだと思います」

 自分を犠牲にして続けている、という話ではないのだ。好きでやっている。だから、続く。

「フェア」を貫く。

 その理由は、彼女が見てきたものにある。

「生まれ持った環境や、体のつくり。目が悪くて眼鏡をかけている。そういう差でからかわれる人を、たくさん見てきました。その差でいじめられたり泣いたりする人を見るのが、いちばん嫌なんです」

おせっかいの正体は、「依存先を増やす」こと

 ここまでの話は、性格の話に聞こえるかもしれない。だが、彼女が人を引き合わせ続ける理由には、はっきりした設計がある。

 支援の現場では、特定の支援者に強く依存する人が出てくる。明日香さんにも、当然それは起きる。

「依存されると思いますし、私も依存していると思います」

 そこまでは、よくある話だ。彼女が違うのは、次の一言だった。

「だからこそ、1対1にしたくないんです。私が死んでしまったら、その子も死を選んでしまうかもしれないから」

「それだったら、依存先がいろいろあればいい。依存先を増やすことも、私の役割のひとつだと思っています。その中のひとりでありたい。依存はされますけれど、その依存先が、ひとりではないようにしたいんです」

 引き合わせて、自分は離れる。小学生の頃からの特徴に見えたものは、支援の設計そのものだった。自分ひとりが抱えれば、その関係は彼女が倒れた瞬間に切れてしまう。だから、関係の本数を増やす。自分は、そのうちの1本でいい。

 これは店の中だけの話ではない。行政、警察、法律、住まい。必要になれば、彼女はためらわずに外へ助けを求めに行く。

「いろいろなところに、助けを求めに行きます」

 そしておそらく、AIが代われないのは「答え」のほうではない。引き合わせること、つまり関係の本数を増やすことのほうだ。 AIは、隣に座ってはくれるかもしれない。けれど、誰かを紹介してはくれない。

支える側にまわった人

 依存先を増やす、という方針は、支援を受ける側だけの話ではなかった。彼女自身の依存先も、増えていった。

 そのひとりが、パートナーのハルさんだ。みんなからそう呼ばれ、慕われている。九州大学の大学院で建築を学び、フィリピンのスラムやボリビアの貧困について研究していた。卒業後は1年ほど勤め、2026年6月に退職。

 出会いは1年前。高校の友人とフリーマーケットを主催しようとしていたとき、明日カフェのテレビ取材をたまたま目にした。団子の販売で出店してもらおうと声をかけたのが、最初だった。

「僕も、明日香さんとは方向性は違いますが、社会課題や環境問題といった、わかりやすいところに関心があって、自分にできることはしようと思っていました。そんなときに、自分の人生のすべてをそこに捧げるような、利他的な人に出会って。ここまで利他的に生きている人を、見たことがないなと思いました」

 彼は、自分の立ち位置を正確に把握している。

「泣いている子への対応は、僕には知識がありませんし、まだできません。そこは明日香さんに任せて、その間に僕は、子どもたちとなら向き合えるな、という気持ちでいます」

 前線に出るより、後ろから支えるほうが向いている、と。

 そしてハルさんは、自分のような人が現れること自体を、次の店で起こしたいと考えている。

「純粋に応援したくて来てくださる方が、ついてきてくれるんじゃないかなと思っていて。そういうサポーターの中から、僕のように子どもに直接関わってくれる人が、常連さんの中から出てきたりとか。それが当たり前になればいいなと思っています」

 客が常連になり、常連がサポーターになり、サポーターの何人かが支え手になる。彼が描いているのは、その循環だ。

「せめて、明日香さんだけは支えないと」

 ハルさんが店に通うようになって、見えてきたものがある。

「毎日ここにいると、いろいろな出来事に巻き込まれてしまうんですよ、必然的に」と明日香さんは言う。キャパシティは超えていないのかと聞いた。

「超えています。キャパオーバーしているものを、毎日やっています」

 それでも続いているのは、周りがいるからだ。そして、なぜ周りが集まってくるのかを、彼女自身がこう説明した。

「それをわかって、みんな来てくれるんですよ、きっと。潰れそうだと思ってくれて」

 ハルさんの言葉は、はっきりしていた。

「この現代社会において、明日香さんがいなくなることは、社会にとって相当な不利益だと思うんです。だから僕は、せめて明日香さんだけは、しっかり支えないといけない、と思っています」

 明日香さんも、自分ひとりでは無理だと認めている。

「すぐに連絡します。『今日も人が来ます』と。ハルさんはずっと隣に座っていてくれて、私が黙っていても、会話をしてくれるんです」

「私ひとりだったら、きっと続けていませんでした」

 本人が全力でやっているから、周りがついてくる。周りがいるから、本人が続けられる。引き合わせて自分は離れる人が、いつのまにか自分自身の依存先も増やしていた。

屋台で団子を販売する様子

数カ月後、2人で新しい店を始める

 ※新店舗 居場所 ひのま/食堂 日ノ間(福岡市博多区銀天町2丁目2-35 アヴァンティ銀天町1階)

 明日カフェは、まもなく区切りを迎える。数カ月後を目処に、明日香さんとハルさんの2人で、新しい店を始める。

 ハルさんには、明日香さんと出会う前から温めていた構想があった。

「出会う前から、地域の公民館のような場所を作りたいと思っていたんです。僕が作る飲食店には、おじいちゃん、おばあちゃん、サラリーマン、子育て中のお母さん、小学生、幼稚園の子、みんなが来る。そこでいろいろな出会いが生まれる。そんなことを勝手に思い描いていました。それを実現している人が、現実にいたんです」

 2人で老舗の和菓子屋を訪ねたとき、それは像を結んだ。創業50年。昔は小学生だった客が、大人になって自分の子どもを連れて、また訪ねてくる。

「まさにこれだね、やりたいのは、と話しました。そういう居場所も、わざわざ名前に掲げたくはないんです。それが当たり前であるべきだと思うので。ただ今は、こういう社会ですから、警固の子たちも『居場所』と書いてあるほうが来やすい。だから掲げておいたほうがいい、というだけで」

 ハルさんの本来の目標は、ゲストハウスだ。旅先の安宿で旅人と交わす会話が好きで、「一生旅を続けるわけにはいかない」と考えたとき、ゲストハウスに入ってしまえば毎日旅人が来る、と気づいた。理想の比率は、8割が地元客、2割が旅人。

「それが逆転してしまうと、ただの観光地になってしまいますから」

 明日香さんが新しい店に望むことは、もっとシンプルだった。

「いつでも、誰でも、駆け込んで来られる場所にしたいです。そういう場所が欲しかったので」

「お腹が減ったとか、悩みがあるとか。高齢の方から子どもたちまで。私の好きな、つなげることを続けたいと思っているので、多世代で交流して、ひとりで抱えなくても、結局みんないるから大丈夫、と思える。そんな安心できる場所になれたら」

 若者を守りたい。そのためには、「地域の大人が必要不可欠」と、彼女は言う。

「それに付随して、孤立している方々、高齢の方も、おひとりの方も、ひとり親の方も。そういう方が社会につながれたら、お互いにいいですよね、という。これも理想なのですが」

好きでやっている。だから、続く

 話の終わりに、自分の性格をどう思うか聞いた。

「これでよかったな、と自分の性格をいつも思います」

 これだけ多くの人と関われば、合わない相手も出てくるはずだ。人の好き嫌いはあるのかと聞くと、「ないですね」と即答したあと、こう続いた。

「嫌いな人ができそうになったら、私、無意識に遠ざけているんじゃないでしょうか。だから、嫌いじゃないんです。嫌いを作らないために、離れるので」

「離れたら、好きになります。そういうものだと思っています」

 引き合わせて、自分は離れる。距離の取り方は、ここでも同じだった。

 やりたいことはあるのか、と聞くと、ないという。

「やりたいことが、そもそもないんです。いえ、やりたいことがそれなのだと思います。子どもの話を聞くこと。環境を整えること」

「そのときのために、エネルギーを取っているんです。動かないといけないときのために。本当に、子どものことだけが大事で」

 自己犠牲ではなく、エゴ。義務ではなく、好き。だから周りも安心して支えられるし、だから続いていく。

 人と人を引き合わせて、自分は離れる。その特徴が、いま福岡のまんなかで、誰かの依存先を増やし続けている。そして増えた依存先の何本かは、いつのまにか、彼女自身を支える線になっていた。

いま、誰かに会いたくなったら

 明日香さんは、福岡市天神の警固公園にある「安心安全センター」を月に2回利用し、そこで若者に会っている。そこで会った子から、あとで電話がかかってくることもあるという。

「おせっかい」を源泉に、子どもたちを支援する明日香さん。そんな彼女を周りがサポートする循環が巡っている。

 【新しい居場所のお店】

 居場所 ひのま/食堂 日ノ間

 福岡市博多区銀天町2丁目2-35 アヴァンティ銀天町1階

 取材・執筆:仲西俊光(チエヒロ編集長)/取材場所:福岡市「明日カフェ」/取材日:2026年9月

厨房で並んで作業する二人のイラスト

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【第4回(最終回)】「社会を、変えていい仕事」――ソーシャルワーカーが狙う、本当の射程 https://chiehiro.com/ideguchi4/ Sun, 30 Aug 2026 17:44:23 +0000 https://chiehiro.com/?p=2366

「ソーシャルワーカーは、社会を変えていい職業だ」。社会福祉士・井手口誠さんが4回の取材の最後に語ったのは、目の前の一人を支える仕事が、なぜ制度や環境そのものを変える射程まで持つのかという話だった。]]>

※この記事は、井手口誠さんへのインタビュー連載(全4回)の第4回です。▶ 第1回から読む

――井手口誠が辿り着いた、ひとつの答え

ソーシャルワーカーとは、何をする人なのか。

社会福祉士の国家資格を持つ人。生活に困った人の相談に乗る人。介護や障害者支援の現場で働く人――。世間が抱くイメージは、おおむねこのあたりに収まる。けれど、これまで3回にわたって井手口誠さんの語りを聞いてきた読者なら、もう気づいているはずだ。それは、ソーシャルワーカーという職業のごく一部分でしかない、ということに。

では、ソーシャルワーカーとは本当は何者なのか。

井手口さん自身が、5時間に及んだインタビューの中で、何度も角度を変えながら答えようとしていたのが、まさにこの問いだった。最終回は、その答えを井手口さんの言葉から組み上げ直していく。

研修で登壇し、付箋を手に説明する社会福祉士の井手口誠さん

「人と環境のあいだ」に立つ仕事

インタビューの後半、井手口さんが何度も口にしたフレーズがあります。

「ソーシャルワークの土台にあるのは、人と環境の相互作用なんですよ」

人が人だけで生きているわけではない、という当たり前の事実から、ソーシャルワークは出発します。人は家族の中で、職場の中で、地域の中で、制度の中で、文化の中で生きている。困りごとが起きるときも、その人個人だけの問題であることは少ない。たいていは、その人と環境のあいだに、なんらかの摩擦や歪みがある。

「人だけを見ない、環境だけも見ない。両方の『あいだ』を見る。そこが整っていないから、その人がしんどくなっているんじゃないか――そう考えるのが、ソーシャルワークなんです」

これは医療とも、心理学とも、教育とも違う視点です。医療は人の身体に介入する。心理学は人の内面に介入する。教育は人の能力に介入する。けれどソーシャルワークは、人と環境の「あいだ」に介入する。

「だから、人にも働きかけるし、環境にも働きかける。両方やっていいんですよ」

両方やっていい、という言葉は軽やかですが、含意は深い。ソーシャルワーカーは、目の前の利用者を支援するだけでなく、その人を取り巻く家族・職場・地域・制度――場合によっては社会そのものに介入する権限を、職業として与えられている、ということです。

社会を変えていい職業がある

世界のソーシャルワーカーが共有する「グローバル定義」を、もう一度引いてみます。

「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である」

最初に出てくる言葉が「社会変革」であることに、多くの人は意表を突かれるのではないでしょうか。福祉の専門職の定義の冒頭に、社会を変えるという過激な動詞が置かれている。

井手口さんは、これを当然のこととして受け取っています。

「ソーシャルアクションって、ちゃんと相談の技法のひとつなんですよ。社会を変える、っていうのは、ソーシャルワーカーが現場でやっていい――というか、やるべき仕事なんです」

第2回で井手口さんが「補助金に頼るビジネスはもう終わりにしたい」と語った背景にあるのも、この社会変革の発想です。制度が歪んでいるから現場が疲弊している。だったら制度のほうに手を入れる――それも立派なソーシャルワークの実践だ、と井手口さんは言います。

「個人を一生懸命支援することも大事です。でもそれだけだと、いつまで経っても同じ問題が再生産される。だから、社会の側にも働きかける。両方やる職業なんですよ、ソーシャルワーカーは」

社会を変えていい職業がある――この事実が、もっと広く知られていい、と井手口さんは強調します。それは、ソーシャルワーカー自身がまず、自分の仕事の射程を取り戻すために。

「人の幸せを追求するのが、福祉なんですよ」

井手口さんが取材中、もっとも素朴に、もっとも繰り返し口にしたのが、この一言でした。

「人の幸せを追求するのが、福祉なんですよ」

第1回でも触れたように、日本では「福祉」は「弱った人を助けるもの」というイメージで固定されています。生活保護、介護、障害者支援。やばくなったときに使う、最後のセーフティネット。

井手口さんの定義は、もっと広い。

「障害があろうがなかろうが、子どもだろうが大人だろうが、高齢者だろうが、福祉って本来、みんなにあるものなんですよ。みんなの幸せを、専門家がサポートする仕組み――それが福祉です」

グローバル定義の言葉でいえば、これが「エンパワメントと解放」の射程です。パワーレスになった人を救うだけでなく、すべての人がより自分らしく生きられるよう、力を引き出していく。

井手口さん自身、AIを「思考の義足」として障害のある利用者に手渡す実践を語りながら、こう言いました。

「義足って、本来は怪我した人や障害のある人のためのものでしょう。でも、もし健常者がそれを使ってもっと速く走れるなら、使ったらいいじゃないですか。福祉の技術も、それと同じなんです」

ソーシャルワーカーが扱う技術――対話のファシリテーション、意思決定支援、人と環境のアセスメント、エンパワメントを促す関わり方――は、本来、誰の人生にとっても役に立つ技術です。それが日本では「弱者のためのもの」に押し込められてしまっている。井手口さんは、この押し込めの蓋を開けに行こうとしています。

「実践に基づいた専門職であり、学問である」

グローバル定義の末尾には、ぽつりとこう書かれています。

「実践に基づいた専門職であり、学問である」

実践と学問の両輪。これがソーシャルワーカーの本質を語る上で、決定的に重要なフレーズだと井手口さんは言います。第1回で触れた通り、日本ではこの「学問」の側が抜け落ちている。

「現場の人たちは、本当によく実践しているんです。でも、自分のやっていることを言語化する訓練を受けていない。だから、せっかくの実践が次の世代に渡らないし、組織にも社会にも還元されない」

これは個々のソーシャルワーカーが怠慢だ、という話ではありません。日本のソーシャルワーカー教育、現場の制度設計、評価の仕組みが、すべて「実践のみ」に偏っている結果です。

井手口さんがAIによる言語化支援や、ソーシャルワーク実践のデータベース化を構想しているのは、まさにこの片輪走行を直すためです。

「実践と学問が両輪で回りはじめたら、ソーシャルワーカーって、もっとずっと強い専門職になれるんですよ」

学問とは、ここでは大学のアカデミアだけを指しません。日々の支援を言語化し、構造化し、共有財産にしていく営み全体です。井手口さんの言葉でいえば「実践知の共有財産化」――それが、ソーシャルワーカーが取り戻すべきもう一つの本質です。

人権という、足元の岩盤

そして、これらすべての土台に置かれるのが「人権」です。

グローバル定義は、ソーシャルワークの中核原理として「社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重」を掲げています。井手口さんが社会福祉士の勉強を始めたとき、もっとも強く揺さぶられたのが、この「人権」という岩盤の存在でした。

「俺、人権って考えたことなかったな、って思ったんですよ。それまで20年近く市民活動をやってきていたのに、です」

人が人として持っている権利を、誰がどう守るのか。義務と権利の主語は誰にあるのか。公共の福祉とは、本当はどういう意味なのか。これらは、日本社会では学校でも家庭でも、丁寧に教えられない概念です。

ソーシャルワーカーは、この「教えられない概念」を職業の中核に据えなければならない、希少な存在です。

「ニュートラルな立ち位置から、人の権利ってなんだろう、って考えられる人が増えないと、社会の議論はいつまでも感情論で終わってしまう。ソーシャルワーカーは、その『考える人』のひとりであるはずなんです」

シングルマザー支援、障害者雇用、子どもの貧困、共同親権、生活困窮――井手口さんが現場で出会ってきた論点は、突き詰めればすべて人権の問題に行き着きます。表面の制度や数字をなぞっているだけでは、本当の解決には届かない。

「人の権利を守るって、どういうことなのか。それを考え続ける職業――それがソーシャルワーカーなんだと、僕は思っているんです」

ソーシャルワーカーとは、何者か

ここまでの井手口さんの言葉を、ひとつの像に組み上げてみます。

ソーシャルワーカーとは、人と環境の「あいだ」に立つ職業である。社会変革を技法として持ち、人々のエンパワメントと解放を促し、実践と学問の両輪でその仕事を磨き、そのすべてを人権という岩盤の上に据えている。

利用者個人を支援するだけでなく、その人を取り巻く環境にも介入する。制度に問題があれば制度を変えに行き、社会の認識に歪みがあれば認識を変えに行く。そして、その仕事の対象は「弱者」だけに限られない――すべての人が、より自分らしく生きるために、ソーシャルワークの技術は使われ得る。

これが、井手口さんが3回の連載を通じて言いたかったソーシャルワーカーの本質です。

だから井手口さんは、AIとDXを現場に持ち込みます(第2回)。書類仕事に潰されているソーシャルワーカーは、本来の射程を発揮できないからです。

だから井手口さんは、補助金依存からの脱却を訴えます(第2回)。補助金は支援対象を「弱者」に固定し、ソーシャルワークの広い射程を狭めてしまうからです。

だから井手口さんは、「触媒」という新しい役割を構想します(第3回)。これは障害者雇用の話であると同時に、組織と社会の人権意識を底上げするソーシャルアクションでもあるからです。

点として見えていたピースが、ソーシャルワーカーの本質という一つの問いに向けて、すべて収束していきます。

ある社会福祉士の挑戦

井手口誠さんは、福岡で働く一人の社会福祉士です。事業所で生活相談員を務めながら、社内のDX推進担当を兼ね、若い世代を巻き込んだ事業構想を進めている。一見すると、あちこちに手を伸ばしている人物にも見えます。

けれど、5時間のインタビューを終えた今、それらすべてが「ソーシャルワークを社会に実装する」という一つの仕事の異なる側面でしかないことがわかります。

「ソーシャルワークを、ちゃんと社会の中に実装したいんですよ」

井手口さんが繰り返したこの言葉は、業界向けのスローガンではありません。グローバル定義に書かれた、ソーシャルワーカーという職業の本来の射程を、日本社会の中で取り戻す――そういう構想の宣言です。

そのために、井手口さんは仲間を集めようとしています。

「同じ価値観を共有できる福祉職の仲間。それから、社会に対して何かいいことをしたいと思っている若い人たち。あとは、人権意識をきちんと持って組織を作ろうとしている経営者の方々」

これらの人々を、ソーシャルワークという土台の上に集める。そして、AIとDXで現場に余裕を作り、補助金に頼らないビジネスモデルでサービスを回し、障害のある人を触媒として組織に迎え入れる。

「日本人って、もともと助け合う民族だったんですよ。村社会の中で、誰かが屋根を葺けば、みんなで一緒に手伝う。そういう助け合いのDNAは、まだ消えていないと思うんです」

助け合いを、もう一度――けれど今度は、補助金依存でも、属人的な善意でもなく、テクノロジーと経営とソーシャルワークの言葉で再設計された形で。井手口さんが描いている風景は、福祉業界の改革にとどまらず、日本社会のあり方そのものに対する、ささやかだけれど芯のある提案になっています。

結び――ソーシャルワーカーは、社会の触媒である

第3回で語られた「触媒」というキーワードは、障害のある人だけに当てはまるものではないのかもしれません。

ソーシャルワーカー自身もまた、社会にとっての触媒である――。

人と環境のあいだに立ち、ぶつかり合いを恐れずに介入し、その場にい続けることで、組織や地域や社会の側を変えていく。井手口さんが事業所で利用者と「AIと3人で相談」している光景も、生活支援コーディネーターに街づくりの作法を教えている光景も、中小企業に福祉技術を実装しに行こうとしている構想も、すべては触媒としてのソーシャルワーカーの仕事です。

「ソーシャルワーカーは、もっと社会に出ていっていいんですよ。制度の中に閉じこもっていないで」

井手口さんはそう言って、笑いました。

社会変革と社会開発、社会的結束、エンパワメントと解放――グローバル定義に書かれたあの広大な射程を、日本のソーシャルワーカーが取り戻すとき、福祉という言葉が指す風景は、いまよりずっと豊かなものになるはずです。

井手口誠さんという一人の社会福祉士が始めようとしている挑戦は、その風景を作り変える、最初のひと押しになるかもしれない。

(インタビュー連載完)

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日本の冤罪率は?有罪率99.9%でも冤罪が起きる構造と、無罪を勝ち取った男性の記録 https://chiehiro.com/enzai-kouzou/ Wed, 12 Aug 2026 19:39:54 +0000 https://chiehiro.com/?p=2353 「日本の刑事裁判の有罪率は99.9%」——この数字を聞いたことがある人は多いと思います。ドラマのタイトルにもなりました。しかし、この99.9%が何を分母にした数字なのかを正確に説明できる人は、そう多くありません。

そして、その数字の向こう側には、実際に無実の罪を着せられ、それでも闘って無罪を勝ち取った人がいます。チエヒロは、その一人に取材しました。この記事では、まず冤罪が生まれる構造を統計と制度から整理し、最後に当事者の証言へつなぎます。

有罪率99.9%とは、何の数字なのか

まず押さえておくべきは、99.9%は「起訴されたあと」の数字だということです。警察が捜査した事件のすべてが裁判になるわけではありません。

2024年の通常第一審事件を見ると、終局総人員5万290人のうち、有罪は4万8004人。無罪はわずか92人でした。割合にすると無罪は0.2%です。略式起訴を含めた全体で見れば、無罪の割合はさらに小さくなります。

一方で、検察が起訴しなかった割合——不起訴率は約68%にのぼります。つまり検察は、送致された事件の3分の2以上を裁判にかけていません。

なぜ無罪判決はこれほど少ないのか

この2つの数字を並べると、構造が見えてきます。検察が「確実に有罪にできる事件だけを起訴する」という実務慣行が、99.9%という数字を作っているのです。

これは「精密司法」と呼ばれ、法務省は制度の正確さの表れだと説明しています。捜査段階で慎重に選別しているのだから、起訴された事件はほぼ確実に有罪である——という理屈です。

ただし、この構造には裏側があります。一度起訴されてしまえば、無罪を勝ち取ることは統計上きわめて難しいということです。0.2%という数字は、起訴された時点で有罪がほぼ既定路線であることを意味します。そして起訴するかどうかを決めるのは、検察です。

「人質司法」とは何か

冤罪を語るうえで避けて通れないのが、人質司法と呼ばれる問題です。

これは、容疑を否認したり黙秘したりする被疑者・被告人の身柄拘束を長引かせ、事実上、自白を促す構造を指します。数字にも表れています。否認事件の第1回公判前の保釈率は12.3%。自白事件では25.9%——およそ半分です。

「認めれば出られる。認めなければ出られない」。この構造の中で、無実の人が「早く家に帰りたい」という理由だけで、やっていないことを認めてしまう。冤罪の入り口の一つが、ここにあります。

冤罪はどこで生まれるのか

過去の冤罪事件を検証すると、いくつかの共通する要因が浮かび上がります。

1. 自白偏重

「自分がやりました」という自白が取れると、本当に有罪なのかを検証する作業が後回しになりがちです。自白は「証拠の王」と呼ばれてきましたが、同時に、最も作られやすい証拠でもあります。

2. 密室での取り調べ

取り調べは、捜査官と被疑者が1対1で向き合う密室で行われます。その場で助言を受けることはできません。何時間も、何日も繰り返されるなかで、抵抗する気力を失っていく。可視化(録音・録画)は一部の事件に限られています。

3. 供述に頼った立証

物的証拠が乏しい事件では、「誰がそう言ったか」が決め手になります。傷害や暴行のように、目撃者の記憶と当事者の言い分が食い違う事件では、供述の信用性がすべてを左右します。診断書や現場の状況といった客観的な証拠が、どこまで検証されるか。ここが分かれ目になります。

それでも無罪を勝ち取った人がいる

統計は0.2%と言います。しかし、その0.2%の中に、実在する人がいます。

チエヒロが取材した男性は、ある集まりの席での出来事をきっかけに暴行の疑いをかけられました。警察と検察による複数回の取り調べ、通常より長い審理を経て、一審では有罪判決。相手側からは損害賠償請求も届いていました。

彼は控訴しました。そして二審で判決は覆り、無罪が確定しています。

なぜ彼は勝てたのか。取材で見えてきたのは、感情ではなく記録で闘ったという事実でした。日時、会話、やりとりの記録。彼は起きたことを一つずつ記録に残し、弁護士とともに相手の主張の矛盾を突いていきました。

その全過程は、本人の証言としてこちらの記事にまとめています。

▶ 無罪の確率、0.1%。権力に打ち勝った、「問題判決」を追う。

身に覚えのない疑いをかけられたら、何ができるのか

取材を通じて見えてきた、実際に効いたことを挙げます。法律の専門的な助言ではなく、当事者が実際にやったことの記録です。

  • 記録を残す——日時、場所、同席者、やりとりの内容。記憶は薄れ、書いたものは残ります
  • 早い段階で弁護士に相談する——費用が心配なら、まず法テラスという選択肢があります
  • 客観的な証拠を探す——診断書、その場の記録など。相手側の主張と矛盾する材料は、どこかに残っていることがあります
  • 取り調べで、事実でないことは認めない——一度署名した調書を後から覆すのは、きわめて困難です

99.9%の外側にあるもの

有罪率99.9%という数字は、制度の精度を示すものとして語られてきました。同時にそれは、起訴された時点で、疑いを晴らすことが極めて難しいという事実の裏返しでもあります。

その0.2%の内側で何が起きているのか。統計では見えないその部分を、チエヒロはこれからも当事者の言葉で記録していきます。

参考

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正面から向き合い、本気で叱ってくれた先生との出会い。今は居場所づくりに全力を注ぐ。 https://chiehiro.com/asuka/ Wed, 12 Aug 2026 13:55:21 +0000 https://chiehiro.com/?p=2300

「身近で気軽に来られる居場所づくり」。昼はカフェ、夜はバーとして営む「明日カフェ」には、心に傷を持った子どもたちがふらりと立ち寄る。支援の看板を掲げない理由と、店主自身の原体験を聞きました。]]>

「身近で気軽に来られる居場所づくり。こんな場所が社会全体にたくさんできたら」

 明日香さん(26)は、揺るぎない笑顔でこう答えた。

 取材場所は、彼女が切り盛りする「明日カフェ」。昼はカフェとして、夜はバーとして営業する。支援者も一般の客も、コーヒーやお酒を目当てに扉を開ける。そしてその同じ空間に、心に傷を持った子どもたちが、ふらりと立ち寄る。実際、この取材の最中にも顔なじみの若者が入ってきた。彼女は話を止めて「帰るとき教えてね」とだけ声をかけ、またこちらに向き直った。それがこの店の日常らしい。

 店のどこにも「支援施設」の看板はない。カウンセリングや相談支援の看板を掲げれば、専門職として料金を取らなければ成り立たない。お金を払える家の子しか来られなくなる。だからただのカフェとして開けておく。カウンセリングルームの扉は重くても、カフェの椅子には誰でも座れる。支援は、支援の顔をしていないときに一番届く。それが彼女の確信であり、「明日カフェ」の根幹だ。誰が支援する側で誰がされる側なのか、外からは見分けがつかない。見分けがつかないことに、意味がある。

 こうした活動の背景には、強烈な「自分自身も当事者だった」という原体験がある。その原体験が、彼女の情熱の土台になっている。

居場所を失った優等生——学校が安全な場所でなくなるとき

 小学生の頃の明日香さんは、全校生徒の前で表彰されるような優等生だった。それが中学1年で一変する。勉強についていけなくなり、成績は学年最下位へ。積み上げてきた「認められる自分」が音を立てて崩れた。親子関係にも深く悩み、家にも、学校にも、居場所がない。行き場を失った彼女は家の外をさまよい、今の「警固キッズ」たちと同じような夜を過ごした。

 限界は、心より先に体に来た。息ができなくなって駆け込んだ内科で告げられたのは、「ここではない。精神科です」という言葉。10代前半の少女に必要だったのは、診断名である以上に、逃げずに向き合ってくれる大人だった。

変化は「先生」との出会いから始まった

 きっかけは中学2年のとき、父親が家に連れてきたカウンセラーだった。先生は彼女ひとりではなく家族全員に向き合い、それを毎週、続けた。

 このカウンセラーは、傾聴するだけの人ではなかった。「今週あったこと」「あなたはどう思いますか?」と問い、間違っていたら「それはズレていますよ」とハッキリ告げる。物事の捉え方の歪みから逃げも隠れもさせず、しかし突き放しもしない。真正面から、彼女のために叱ってくれた。

 大人に「怒られた」経験なら、それまでにいくらでもあった。だがその多くは、大人の都合や体面のためにすぎないと彼女は感じていた。しかし先生は違った。目を見て、本気で向き合って叱る。ごまかしは許さないが、追い詰めることは絶対にしない。同じ「叱る」でも、まるで別の行為だった。今も彼女の胸に残る言葉がある。良くない行動を「知らなかったから」と言い訳したとき、先生はこう言った。

「『無知は罪だ』って。その言葉が一番響いて、今も覚えています。知らないことで悪いことをし続けるのは良くないんだって、そこで初めて思えた」

 この一言で人生が変わった――という話ではない。彼女自身が、それをきっぱり否定する。

「具体的にこれがあったから変わった、じゃないんです。本当に毎週の積み重ねで変わっていけた。徐々に、です」

 急激に変わったわけではない。徐々にだ。揺り戻しのような経験もした。カウンセリングが途切れ、状態が悪化した時期もあった。それでも毎週の積み重ねは続き、頑なだった心の氷は少しずつ溶けていった。そして崩れかけていた少女に、生まれて初めての夢ができる。先生みたいになる、という夢だ。

「受けたくても、受けられない人がたくさんいる」——居場所をつくると決めた高校1年

 居場所をつくると決めたのは高校1年、支援を受け始めて3年目のときだった。きっかけは、周りの友人たちだ。当時の彼女の周りには、親の恋愛に巻き込まれて不安定な生活を送る子、家庭の事情で進学させてもらえなかった子、身体的・心理的な虐待を受けていた子など、家庭に困難を抱えた友人ばかりが集まっていた。自分は毎週カウンセラーに向き合ってもらえている。友人たちには、その大人がいない。

「私は偶然この親のもとに生まれて、お金があったから支援を受けられた。でも、受けたくても受けられない人がたくさんいる。それに気づき出した頃に、この夢を持ちました」

 救われた側と救われない側を分けたのは、本人の努力ではなく偶然だった。この認識が、彼女の活動のすべての出発点にある。だから無料でなければならない。だから専門の看板を掲げてはならない。冒頭に書いた明日カフェの設計は、高校1年のこの決意から一直線につながっている。

学年ビリからの国家資格——社会福祉士になるまで

 夢はできた。だが現実は厳しい。中学1年から勉強を捨てていた彼女の学力では、福祉を学ぶ大学など到底届かない。高校2年で「このままでは大学に入れない」と突きつけられ、そこから彼女は走り出す。教師たちに頭を下げてプリントをもらい、自学を始めた。上位に届いたわけではない。それでも最下位からは抜け出し、学年の中ほどまで戻した。懸命に動いてくれた教師たちの後押しもあり、大学への道がつながった。

 大学では4年間、すべての授業を最前列で受けた。多い時期は1日15時間、机に向かった。そして社会福祉士と精神保健福祉士、二つの国家資格を取得する。中学時代は学年最下位だった少女が、である。夢が学力を追い越した4年間だった。

賞状を手に笑顔を見せる「明日カフェ」の関係者たち

挫折も、道のうち

 もっとも、資格を取れば支援者になれるわけではなかった。卒業後に就職したのは、傷ついた子どもたちが入所する施設。そこで彼女は打ちのめされる。子どもたちは、自分が受けてきた傷を、そのまま彼女にぶつけてきた。「この子はどんな環境にいたのか」考え出すと夜も眠れず、やがて出勤できなくなった。適応障害と診断され、半年間引きこもった。

「支援者になりきれなかった。入り込みすぎたんです。でも、あの頃の自分からしたら、あれも正解のルートだったと思ってます」

 挫折を失敗と呼ばず、道のうちに数える。この距離の取り方も、揺り戻しを含めて回復と呼ぶことを教えた先生の流儀に、どこか通じている。

 その後はNPOの居場所づくり活動に加わり、繁華街に集まる子どもたちと関わった。スクールソーシャルワーカーとして学校現場にも通算3年間立った。そして活動に共感し、資金面で支えてくれる人との出会いに恵まれる。今年度からは他の仕事をすべて辞め、明日カフェ一本に絞った。高校1年の夢は、10年かけて現実の店になった。

受け止める。ただし、ダメなことはダメ——子どもとの向き合い方

 明日カフェでの彼女は、子どもを叱り飛ばすことをしない。まず受け止める。彼女には持論がある。甘えは、練習だというのだ。甘えていい時期にきちんと甘えられた人は、やがて自立できる。逆にその時期に甘えさせてもらえなかった子は、人との距離の取り方を練習できないまま大人になる。目の前で不器用に甘えてくる子どもたちは、後者だ。

「だから一回、全部受け入れたい。でも、ダメなことはダメって言ってます」

 約束の時間を破る子には、ここでは私との約束だから許されても、社会で同じことをすれば自分が傷つくと伝える。危うい方向に流されそうな子には、頭ごなしに否定せず、結局苦しむのは自分自身であり、周りも傷つくのだと語りかける。受け止めはするが、ごまかしは見逃さない。どこかで聞いた流儀である。彼女が中学2年から毎週向き合ってもらった、あの流儀だ。彼女はいま、かつて自分が救われたのと同じ方法で、子どもたちの前に座っている。

 優しさとは何かと問うと、彼女は長く考え込んだ末、自分を優しいとは思わないと前置きして、こう言った。

「ちゃんと叱るのは、甘さじゃなくて優しさだと思ってます」

希望を捨てず、願い続ける——子どもの居場所を続けるということ

 子どもたちに頼られ、寄りかかられる毎日は、軽いものではない。しんどくて動けなくなる日があることを、彼女は隠さない。それでも続けてこられたのは、かつて先生ひとりだった「向き合ってくれる大人」が、大人になるにつれて増えていったからだ。彼女の夢を応援し、支える人たちがいる。今度は彼女が、誰かにとってのその大人になっている。

 目指す社会を聞くと、迷いのない答えが返ってきた。

「私の理想は、虐待がなくなった社会。それは無理かもしれません。だけど私は、ずっと無理なことを願ってるので。虐待がない社会を目指して行動します」と。

 守りたいのは、選択肢の少ない子どもたち。お金も経験も知識も人脈もない子どもたちに選択肢を増やすのは大人の責任だと、彼女は言う。冒頭の「こんな場所が社会全体にたくさんできたら」という言葉は、その責任を、社会のもっと多くの大人と分かち合いたいという呼びかけでもある。

 先生との交流は今も続いている。壁にぶつかれば会いに行き、教えを持ち帰る。彼女にとって先生は、今もなお「師匠」であり続けている。

 取材を終える頃、店にはまた新しい客が入ってきた。コーヒーを飲みに来た客なのか、居場所を探しに来た子どもなのか、見分けはつかない。つかないままでいい。かつて居場所を失った少女がつくったこの店は、今日も誰にでも、同じ顔で扉を開けている。

テーブルを囲んで語り合う「明日カフェ」店内の様子

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無罪の確率、0.1%。権力に打ち勝った、「問題判決」を追う。 https://chiehiro.com/enzai/ Mon, 20 Jul 2026 18:56:57 +0000 https://chiehiro.com/?p=2283

無罪判決から数か月後、担当検事はもうその街にいなかった——。無罪の確率0.1%と言われる日本の刑事裁判で、権力に打ち勝った「問題判決」を、当事者の証言から追いました。]]>

無罪判決から数か月後、男性が検察庁に問い合わせると、担当検事はもうその街にいなかった。

公務員の異動期ではない、年度途中の転出。行き先は、遠く離れた他県の小さな支部。栄転と呼べる要素は、どこにもなかった。彼を起訴した検事は、飛ばされていた。

男性が犯したとされた罪は、重いものではない。「酒の席で、隣の男を殴ったか、殴っていないか」――有罪になっても罰金数万円で終わる、捜査の世界で「微罪」と呼ばれる類いの話である。

その微罪が、検事の経歴に傷をつけた。

日本の刑事裁判では、起訴された者の99.9%が有罪になる。検察にとって無罪判決は敗北では済まされない「あってはならない事故」であり、内部では「問題判決」という隠語で呼ばれる。無罪が出ればその報告は組織の上層まで駆け上がる。ちなみに一度起こした公訴を検察が自ら取り下げるには、検事総長、次長、そして法務大臣の決裁が要る。つまりこのシステムは、走り出したら止まらない。止める設計になっていないのだ。

そのシステムを止めたのが、「無罪判決」を勝ち取った男性だ。誰もが知る大手企業に勤める、50代の会社員。ここではAさんと呼ぶ。

Aさんは、事件からの二年間で刑事司法の本を100冊以上読み、裁判所に通って200件近い裁判を傍聴した。その200件の中に、無罪判決はただの一度もなかった。自分のもの以外は。

話は、会費5千円の飲み会から始まる。

夜の居酒屋のカウンター席のイメージ

五千円の夜——冤罪は、どこから始まったのか

10年ほど前の初夏、西日本のある都市。大学の同窓が集まる小さな洋風居酒屋に、Aさんは一人で出かけた。後輩の学生が楽器を演奏してくれるという趣向で、「音楽も聴けて5千円ならいいよね」――その程度の夜のはずだった。

テーブルは7人。そこに、顔を見たことがある程度の男が2人いた。男Xと男Yとする。

2人は最初から場を支配した。投資の話、商売の話。威勢だけはいいが、長年ビジネスの現場で人を見てきたAさんには、実像の見当はついた。聞き流せば、矛先がこちらに向く。Aさんが口を開くたび、茶化す。Aさんと話したい学生が声をかければ、割り込む。それが1時間以上続いた。

そして糸が切れた。Aさんは立ち上がり、怒鳴った。

「怒鳴ったのは事実です。それは間違いない。あまりにもひどかったから」

騒ぎに出てきた店主へ会費の倍の金を渡し、詫びて店を出た。大人の酒席の、苦い一幕。普通なら、そこで終わった話だった。

だが翌朝、男Xはかかりつけの耳鼻咽喉科へ行き、診断書を手に入れていた。

後の裁判で明らかになるが、そこで受けた処置は、以前から通う副鼻腔炎の治療で使う鼻の吸入だけ。湿布も痛み止めもなし。カルテに怪我の所見はない。それでも、書類は書類だ。

「殴られた」と言うX。「殴ったように見えた」と言うY。そして診断書。――この時点で、一人の人間を二年間挽き続けるシステムのパーツは、すべて揃ってしまったのだ。

警察からの電話——ある日突然、被疑者になる

約1か月後、会社のAさんに電話が入る。名乗ったのは個人名。不動産か貴金属の勧誘かとあしらいかけたとき、相手は言った。「警察署の者です」。

呼び出された先で告げられた容疑に、Aさんは絶句する。あなたはあの夜、Xさんを殴った。それも、2回。

酒が入っていた。怒鳴ったのも事実。──ここで、「冤罪」という現象の最も不気味な性質が顔を出す。周りが「殴った」と言い、警察が「殴った」と言うと、揺らぐのは事実ではなく、記憶のほうなのだ。数日後、法律相談の席でAさんは弁護士にこうこぼしている。

「……殴ったんかなあ」

取調べは何度も繰り返された。取調官は、悪徳警官ではなかった。むしろ逆だ。弱い者が殴られた、かわいそうに――そう信じ込んだ、正義感の強い男だった。おそらくこれが冤罪の作られ方の標準形で、悪意より善意のほうが、ずっと質が悪い。否認するAさんに、取調官は繰り返した。

巨大な歯車の前に立つスーツ姿の男性。司法制度の重さを表すイメージ

「みんな見てんだよ」——取り調べで、何が起きるのか

みんなとは誰か。何度問うても、名前は決して出てこなかった。

書類が検察へ送られると、検事は判で押したように同じ言葉を繰り返した。「謝ってきたらどうですか」。謝罪すれば金の話がつき、認めたことになり、事件は検察の手を「きれいに」離れる。全員にとって、それが一番楽な出口だった。

――ここで、読む手を少し止めてほしい。

このときAさんの前にあった道は3つ。①相手に100万円ほど包んで被害届を下げてもらう、通称「大人の対応」。②略式手続きで罰金を払い、1日で終わらせる。ただし前科がつく。③否認を貫き、99.9%の壁に正面からぶつかる。

あなたなら、どれを選ぶだろうか。会社がある。家族がいる。世間体がある。①なら、明日からすべて元通りだ。

ほとんどの人間が①を選ぶ。無実でも、選ぶ。だからこそ99.9%という数字は保たれている。あの統計は「日本の警察は間違えない」ことの証明ではない。「日本人は起訴される前に頭を下げる」ことの証明でもあるのだ。

Aさんも、傾いた。「勉強料かな」と自分に言い聞かせかけた。元警察官だった近しい知人にも相談した。「せっかく入った会社のこともある。現実的に考えたらどうか」。起訴された人間がどうなるか、誰よりも知る知人からの忠告だった。

それでも彼は③を選ぶ。理由を尋ねると、返ってきたのは「真っ直ぐな正義」や「揺るぎない信念」ではなかった。

「勇気があって戦ったんじゃないんです。あの男に頭を下げて、すみません、許してくださいと言って、そのうえ金まで払う――それだけは、どうしてもできなかった。一番引きたくないクジが、最後にそれだけ残った。それだけです」

いわゆる“英雄”の動機ではない。本人曰く「消極的な選択」。だが二年間、彼の中で一度も折れなかった。

戦闘準備——冤罪を晴らすために、何をしたのか

感情だけでは、システムには勝てない。ここからのAさんの動きが、この物語を凡百の悲劇と分けていく。

まず、記録を持った。取調室に入るとき、胸には指ほどの小さなレコーダーが忍ばせてあった。密室で何が語られようと、後に残るのは向こうの作る調書だけ――ならば、こちらも証拠を持つしかない。

その調書には、最後まで判を押さなかった。日本の刑事裁判は調書でほぼ決まる。「調書がほとんど命です。あれでほぼ100%決まる」。だから何度取調べを重ねられても、署名だけは拒み続けた。あるときは自分から「嘘発見器にかけてくれ」と申し出た。受け入れられることはなかったが、その申し出をしたという事実は残る。

家を出る朝には、妻に必ず言い残した。「夜12時を過ぎて連絡がなかったら、翌朝すぐ弁護士に電話してくれ」。取調べからそのまま逮捕された事例を、本で読んで知っていたからだ。会社には最後まで告げなかった。言えば、切られる。大きな会社ほどそうだということを、男性は熟知していたからだ。

夜と週末には、本を読んだ。冤罪、取調べ、裁判官の生態。100冊を超えた。そして裁判所に通い、他人の裁判を傍聴した。200件。目的は知識だけではない。「本番で緊張しないように、法廷という場に体を慣らしたんです」。その200回で無罪判決を一度も見なかったことは、彼に絶望ではなく、法定での「相場観」を与えた。

台風——公判は、通常の倍以上に伸びた

公判は、通常の倍以上の回数を重ねた。認めないからだ。

法廷で、相手側の証言は揺れ始めた。捜査段階の供述と食い違い、「殴った」は「殴ったように見えた」へ後退し、「よく覚えていない」「分からない」が連発された。弁護士は電話でのやり取りの記憶まで突きつけ、じわじわと信用性を削っていく。

だがAさん側には、決定打が欠けていた。あの夜のテーブルにいた、利害関係のない第三者の証言だ。学生だった。

接触は容易ではなかった。起訴前に動けば「証拠隠滅を図った」と調書に書かれかねない。起訴後、店を介して頼み、断られた。手紙を託して直接電話をもらえたときの答えも「申し訳ないですが、お断りをしたいです」。一学生にとって、刑事法廷とは、それほど重い。

流れを変えたのは、人間ではなかった。台風である。

渦の中心へ続く一本の光の道。出口の見えない裁判のイメージ

公判期日の当日、大型の台風が直撃し、街の交通が止まった。期日は流れ、審理は2か月延びた。その日は相手側2人の証言が予定されていた日だった。そしてこの2か月の間に、Aさんは大学の恩師筋の教授を介して、学生とその両親へ手紙を届ける。三度目の依頼で、返事が来た。――お引き受けします。

延期で審理の組み方が変わっていたことで、裁判所は彼女の証人採用を認めざるを得なくなった。彼女は父親に付き添われて法廷に立ち、あの夜を証言した。

さらに相手側は、自滅の証拠を自ら送ってきた。Aさんの自宅に届いた、約60万円の損害賠償を求める内容証明。弁護士と相談し、これをそのまま裁判所へ提出した。

これだけ揃えて――それでも、一審は有罪だった。罰金刑。誰も見ていないはずの殴打の瞬間が、判決文の中では、まるで見てきたかのように描写されていた。99.9%とは、そういう数字である。

控訴した。しかし、医師の鑑定尋問の請求は、却下。審理らしい審理のないまま、裁判長は言った。

次回、判決。「あなた、来ますか?」

──つまり、何も調べずに終わるのか。目の前が暗くなった。絶望を感じた。二年間が、音もなく閉じるのかと。

しかし。後から思えば、兆しはあった。この裁判長は、法廷で書類ではなく人間の顔を見て話す。書類至上主義ではなかった。判決期日を告げたとき、被告人席のAさんに、妙な一言を残した。「あなた。来ますか?」

逆転無罪判決——二年間かけて、無罪が確定するまで

判決の日、法廷で読み上げられたのは、「逆転無罪」。判決文は、弁護側が控訴趣意書で突きつけた疑問の一つひとつに、ほぼすべて答えを書き込んでいた。あの「次回、判決」は絶望の宣告ではなく、すでに心を決めた裁判長の、事務連絡だったのだ。

後にAさんは知る。無罪判決を書くという行為が、裁判官の側にとってどれほど重いか。無罪判決は最高裁の事務方の目に晒される。だから書くなら、どこから突かれても耐える文章を書き切らなければならない。多くの裁判官は、その坂を登らない。登らないまま、99.9%は今日も更新されていく。

「一番驚いたのは、実は弁護士さんたちでした。職業柄、彼らが一番知っているから。一生に一度も立ち会う機会がない。無罪判決は、それほど珍しいことだそうです」

検察は上告しなかった。無罪確定。そして冒頭の場面に戻る――彼を起訴した検事は、年度途中に遠い支部へと消えた。罰金数万円の微罪が、組織の中では、それほどの「事故」だったのである。

確定後、Aさんはあの取調官に電話をかけている。「二年前の件を覚えていますか」と。

そのうえで告げた。あの2人を虚偽告訴で訴えたい、被害届を出しに行く。受話器の向こうで、かつて「みんな見てんだよ」と迫った男は、激昂した。みんなが見ていたはずの事件は、無罪だった。

「冤罪の根絶」と掲げられた看板を見上げる男性の後ろ姿

細い線——なぜ、この人は冤罪から抜け出せたのか

なぜ、この男性が勝てたのか。

頭を下げることをどうしても拒んだ一点の感情。レコーダーと、判を押さなかった調書。100冊以上の冤罪の書籍の読み込みや、関連法規の勉強。二百回の傍聴が作った場慣れ。勇気ある一人の証人。人間の顔を見る裁判長。そして、台風。

取材の間、男性のたゆまぬ努力をひしひしと感じた。しかし、その上でAさんは言う。「結局は、運の要素が大きいですよ」と。

裁判の途中、心は何回も折れたとAさんは言う。「折れたけど、レールに乗ってしまったから、やるしかなかった」。二年間、事件を思い出さない日は一日もなかった。

あれから10年近く。Aさんは今も冤罪事件を追い、死刑執行後に再審が争われる事件の集会に通い、請われれば弁護士会で体験を語る。

同じ立場に陥ってしまった場合への助言は三つ。すぐ弁護士を呼ぶこと。記録を取ること。言い負かされると感じる人は、勇気を持って黙秘すること。そして、こう付け加えるのを忘れない。

「裁判で無罪を取れ、なんて言いません。目指すべきは、起訴させないことです。私はたまたま、取れただけですから」

思い出してほしい。発端は、会費5千円の同窓の飲み会である。彼はそこで、あまりに無礼な男を怒鳴りつけた。ただ、それだけだった。

平穏な人生と被告人席を隔てる線は、私たちが思っているより、はるかに細い。そしてそこから、戻ってこられた人間は――1000人に、1人しかいない。

砂時計と法廷に並ぶ人影。長期化する刑事裁判のイメージ

(本記事は、本人の意向により、人物・地名・時期等を特定できないよう一部の情報を変更・抽象化しています)

▶ この数字の中身——有罪率99.9%とは何を分母にした割合なのか、無実の人がなぜ有罪になってしまうのかは、こちらで整理しています。

有罪率99.9%の構造と、無罪を勝ち取った男性の記録

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根性論からの、卒業。世界の野球場を渡り歩いた24歳の山内さんが、挑み芽吹かせる「みんなが楽しめる野球」のエコシステム https://chiehiro.com/yamauthi1/ Tue, 26 May 2026 08:17:46 +0000 https://chiehiro.com/?p=2269

アメリカ、ベネズエラ、ポーランド、そして日本の独立リーグ。9年間で3カ国を渡り歩いた24歳の山内さんが、京都で挑む「みんなが楽しめる野球」のエコシステム構想と、その原点。]]>

アメリカ独立リーグ、ベネズエラからアルゼンチンへ移った即席プロリーグ、ポーランドのグラウンド、宮崎サンシャインズ、そしてもう一度ポーランドへ——。24歳の山内さんは、大学3年から9年間、3カ国の海外と日本の独立リーグを、自分の身体で渡り歩いてきた青年です。「俺はお前をリスペクトしてる」。アメリカで一人の指導者からかけられたその一言が、彼のなかで静かに芽を出し、いま京都で根性論からの脱却と、みんなが楽しめる野球の追求というかたちで、小さな種になろうとしています。「学生のまま」「普段の仕事の延長線上」に、“本気で野球と向き合える場所”をつくり、海外と地域と若者を一つの円でつなぐ——その壮大な構想の中身と、原点について伺いました。

「魂が、震えたんです」——アメリカで聞いた、たった一言。

物語の核に、まずこの場面を置きたい。

大学3年生のとき、山内さんはアメリカの独立リーグに飛び込んだ。最初に所属したチームでは、思うような結果を出せずに苦しんでいた。クビと昇格が紙一枚で隣り合うような環境のなかで、「結果を出さなければ」というプレッシャーが、かえってパフォーマンスを縮こませる。誰もが経験するであろう負のループに、山内さんも嵌まっていた。

ある日、彼のなかで「目の前のことを、全力でやりきるしかない」とスイッチが入る。

不思議なもので、覚悟を決めた途端に、結果は出始めた。すると、その姿を見ていたのが、ライバルチームの監督だった。マイナーリーグへの登竜門として上位に位置する強豪チームの監督で、現役時代はメジャーリーグの第一線で活躍してきた経歴の持ち主だった。

「お前、いいな」

山内さんに、その監督が最初にかけた言葉は、彼が日本の野球で一度も聞いたことのないものだった。

「『俺はお前をリスペクトしてる』と。『お前のやることをやればいい。ダメだったら俺の責任、よかったらお前の手柄。それだけだ。やってこい』と言われたんです。野球指導者からそんな言葉を言われたのは初めて。魂が震えました」

リスペクト。

その一言が、青年の体内に深く刻まれた。それまでは、否定される空気もあった。結果が出ないと、人格そのものを問い直されるような感覚。そのなかで自信を擦り減らしてきた青年に、遠いアメリカの地で出会った一人の指導者が、向き合ってくれた。

「あの人は、選手それぞれが頑張っているポイントをちゃんと見て、『俺はそこをリスペクトしてる』と的確に言ってくれるんです。やみくもに褒めるのではなく、一人ひとりの努力の輪郭をちゃんと分かって、その上で言葉を渡してくれる。だから、響いたんですよね」

この一言が、いま京都で芽吹こうとしている、根性論を超えて選手が伸びやかに育つ野球文化への構想の、最も深い種になっている。

野球のユニフォーム姿でトロフィーを掲げる山内さん

9年で、抱えるようになった「課題感」。

帰国した山内さんが胸に持ち帰ったのは、世界の景色と、もう一つ、いくつかの課題感だった。

「9年間でいろんな国を見て、いろんな選手や指導者と関わってきたなかで、自分のなかに少しずつ残っていったものがあるんです」

たとえば、若い才能のことだ。世界中の野球の現場で、「もっと伸びるはずだったのに」と感じる選手たちに、山内さんは何度も出会ってきた。本人の資質ではなく、置かれた環境や仕組みのなかで、その芽が伸びきれずに終わっていく姿。それは日本に限った話でもないが、日本独自の構造があるのも事実だと、彼は感じている。

「指導の現場って、選手の自主性をどう育てるかと、まとまりをどう作るかのバランスが、すごく難しいんですよね。一方向に振れすぎると、せっかくの才能が伸びにくくなる側面もある。ただこれは、誰かが悪いという話じゃなくて、長年積み重なってきた文化のかたちなので、簡単に変えられるものじゃないんです」

もう一つ、彼が感じてきた課題感がある。日本の野球には、学生をやりながら本気でプロを目指せるルートが、ほぼ用意されていないという現実だ。

「サッカーだったらJリーグのユース、クラブチーム、高校の部活と、いろんな選択肢がありますよね。野球って、そこがもう少しスリムなんです。もし学生のまま、プロを本気で目指したいと思ったら、いまは大学を休学して独立リーグに行くしかない。それって、ハードルが高いじゃないですか」

ここで山内さんが語っているのは、誰かを批判する話ではない。彼自身が9年間を歩いてきた身体の記憶として、「こうだったら、もっと多くの人が生きやすい・伸びやすいのに」と感じてきたこと、その素朴な観察である。

そして、その観察から生まれてきたのが、「根性論を超えて、好きを好きなまま続けられる場所をつくる」という思想と、それを「エコシステム」として実装するという構想だった。

好きを、好きなまま、やりきれる場所をつくる。

「根性論からは、もう卒業していいんじゃないかなって、思ってるんですよ」

山内さんは、自分の思想をそう表現する。

「これは、野球を好きで始めた人が、好きなまま野球をやりきれる、というイメージなんです。途中で挫折して離れちゃう人もいれば、続けるなかで野球そのものへの愛が薄まっていってしまう人もいる。それって、ものすごくもったいないことだと思っていて」

野球を続ける動機が、いつのまにか「認められたい」「結果を出さないと居場所がない」というプレッシャーに置き換わっていく——彼は、自分自身の経験のなかでも、周囲の選手を見てきた経験のなかでも、その入れ替わりを何度も目撃してきた。

「もちろん、悔しさをバネに伸びる人もいます。それを否定したいわけじゃないんです。ただ、もう一つの選び方があってもいいよね、と思っていて。指導者が選手のことを本当に見て、『俺はお前のここをリスペクトしてる』と言葉にしてくれて、選手がのびのびと自分のスタイルで野球を続けられる場所。そういう場所が、もっと増えてもいいんじゃないかな、と」

アメリカで山内さんの魂を震わせた一言が、ここでもう一度立ち上がる。

「楽しんでやる、って軽く聞こえるかもしれないけど、実はめちゃくちゃ強い文化なんですよ。好きなまま野球をやりきった人は、いつかその経験を、また次の世代に渡せる指導者になるんです。そうやって、楽しんで野球をやる文化が次の世代に循環していく。日本全国に広がっていく。それが、僕がいちばん大事にしたいところで」

山内さんが描いているのは、個人の感情の問題ではない。指導者の世代交代を通じて、文化として循環していく仕組みの問題なのである。

海外の野球場でのチーム集合写真

「すっからかんに、空いてるんですよ」——誰も手をつけていない空白地帯。

この思想を文化として広げるためには、それを実装する「場所」が要る。山内さんが見据えているのは、まさにここである。

「日本の野球には、学生をやりながら本気でプロを目指せるルートが、ほぼないんですよね。これって、誰も模索していない空白地帯なんです。すっからかんに、きれいに空いてる」

彼は笑いながらそう言うが、目は真剣だった。

「大学生からプロになる選手は、たくさんいるじゃないですか。その人たちは別に学位を取りに大学に行ってるわけじゃない。学生をやりながらでも、プロは目指せるはずなんですよ。理屈の上では」

理屈の上では成立するはずなのに、実際にはそのルートが存在しない。なぜか。それは、現状の構造のなかで誰もそこに手をつけてこなかったから、というシンプルな理由に尽きる。

「だったら、僕がやればいい。本当にそれだけのことなんです」

——その「ただそれだけのこと」を実装するのが、これから明かす京都の構想である。

京都に、海外と学生が交わるチームを作る。

山内さんが描いている絵を、できるだけそのまま紹介したい。

舞台は京都。学生数が日本でいちばん多いこの街に、彼は「学生をやりながら本気で野球と向き合えるチーム」を立ち上げようとしている。次の候補地として福岡も視野に入っているが、まずは京都だ。

集客と選手集めの軸として彼が考えているのは、「海外野球」というコンテンツである。

「日本の野球って、実は世界的に見てめちゃくちゃ評価が高いんですよ。野球の世界ランキングで、男子・女子・男子ソフト・女子ソフトの全部で日本は1位なんです。WBCも、過去6回中3回が日本優勝。圧倒的なんですよ」

日本野球の世界的なステータスは、山内さんが海外の現場で何度も実感してきた事実だ。海外の指導者や選手たちは、日本でプレーしてみたい・指導を受けてみたいというニーズを、漠然とではなく具体的に持っている。

「ヨーロッパの代表クラスの指導者たちと話していると、『日本に行きたい』って人がたくさんいるんです。でも、その受け皿がないんですよね。だったら、僕が呼んでくればいい」

具体的な絵はこうだ。海外から20人の選手と、日本の学生20人。京都を拠点に、彼らが一緒に練習し、リーグ戦を行う。海外の指導者が日本人選手を教え、日本の指導の現場が海外の選手を受け入れる。学生は学業を続けながら、本気の野球と毎日向き合える。

「地域の方々にホームステイをお願いできたら、地域の方々と海外選手の交流も生まれます。地元企業さんがスポンサーや生活のサポートに入ってくださって、選手はオフシーズンにそこでバイトやインターンをする。野球以外の選択肢も自然に見えてくるし、その上でプロを目指す人はそのままプロを目指す。両方のレールが、ちゃんと用意されている場所をつくりたいんです」

野球を入り口にして、地域・国際交流・教育・スポンサーシップが一つの円のなかで回り始める。これが、彼の言う「エコシステム」である。

スクリーンの前に立ち、野球の構想について語る山内さん

京都の空き家、地方創生、独立リーグの再設計。

エコシステムを支える周辺ピースも、彼の頭のなかではすでに動き始めている。

たとえば、京都市が抱える空き家の問題。これは行政課題として広く知られているが、選手たちの宿舎としてうまく組み合わせれば、地域課題の解決と、選手の生活基盤の確保が同時に進む。

「いま、京都市の空き家関係の方ともお話を進めようとしているところで。提携できれば、海外の選手も日本人選手も、住む場所が確保できる。地域にとっても、空き家が活用される。両方にメリットがあるじゃないですか」

独立リーグそのものの可能性についても、彼は冷静に見ている。

「独立リーグって、いまどんどん増えているんですよ。プロ野球とは違うルートで才能を伸ばす場所として、すごく価値がある。ただ正直、運営の面ではまだ伸びしろがあるところもあって、ビジネスとして成立させるための工夫の余地が大きい領域なんですよね」

ここで彼が語っているのは、批判ではなく、機会の話である。地域住民の選抜チームと選手チームの対戦企画、お笑い芸人の客寄せイベント、引退したスターによる「マスターズリーグ」的な試合——。エンターテインメントと地方創生とプロ志望のレールを、すべて野球の球場の上で同時並行に走らせる。

「野球場のなかにレストランをつくって、そこでチケットを配るとか、地域の人にホームページの運用をお願いするとか、いろんなやり方があると思うんですよ。ちゃんと設計すれば、野球は地方創生のキラーコンテンツになる」

そして、彼の構想はさらに先を見ている。

「野球で地域の循環ができたら、そこからサッカーとか、ラグビーとか、アートとか、いろんな文化に展開できるはずなんですよ。最初の入り口が野球で、最終的には日本の地域そのものを、もっと面白くできる」

野球を通して、日本そのものの構造を組み替えていく——壮大な絵だが、彼のなかでは無理筋ではない。むしろ、自分が9年間世界を歩いてきたからこそ、見えている地続きの絵なのである。

海外の街路を歩く山内さん

「自分の功績だ」と誇るやつには、なりたくない。

ここまで読むと、山内さんは野心満々の起業家のように見えるかもしれない。だが、彼が一貫して大切にしているのは、むしろその逆の姿勢だ。

「もし将来このエコシステムが回り始めたとして、それを『自分の功績だ』って誇るような人間にだけは、なりたくないんですよ。それ、めちゃくちゃダサいじゃないですか」

エコシステムは、一人では作れない。彼自身、それを身体で理解している。

「最初は自分でやらないといけない部分もあるんです。でも、ある段階からは、周りの人の力やピースをフル活用して、持ちつ持たれつの関係を一緒に築いていく。そのうえで、僕がだんだん全体を整えていくっていうのが、いちばん持続可能なやり方だと思っていて」

彼が好む比喩は、ウイルス感染とオセロだ。

「『なるほど、それ面白いやん』って人に種のように渡していくと、それが少しずつ感染していって、どこかで一気にオセロみたいにひっくり返る瞬間がくる。そういう広がり方が、いちばん健全だと思うんです」

中央集権ではなく、フラクタルな増殖。自分が全体の頂点に立つのではなく、自分の構想をたくさんの人のなかに分散させ、それぞれの場所で勝手に発酵させていく。彼が描いているのは、そういう種類のリーダーシップなのだ。

「だから僕、いま意識してやっているのは、自分の言葉をちゃんと言語化することと、それをまっすぐ人に伝えることなんです。営業の現場に1ヶ月間身を置いて日々鍛錬しているのも、そのためで。一方的に思いをぶつけるだけじゃなくて、相手の話をちゃんと聞いて、相手の文脈に翻訳して伝える、そういう体力をつけていきたい」

世界を漂流してきた青年が、いま身につけようとしているのは、「伝える力」である。

2028年に向けて、いま、種をまいている。

エコシステム本体の本格スタートは、来年から再来年——彼の頭のなかでは、2028年が一つの目標として置かれている。それまでに、種をまける場所には、できる限りまいておきたい。

今年の試験的な動きとしては、すでに具体的な日程が動いている。日本から海外へ送り出すイベントと、海外を日本へ迎え入れるイベントの両方を、夏と秋に分けて実施する予定だ。ポーランドとの関係を起点に、「送り出す」と「受け入れる」の両方のロールモデルを、まず自分で実装してみせる。

「いきなり大きく始めるより、小さく回してみて、ちゃんと回ることを確認しながらスケールさせていくほうが、結局いちばん早いと思うんですよ」

そして、もう一つの種が、いま彼の手元で形になりつつある「本」だ。

「自分のことをこうやって毎回ゼロから話すのって、けっこうエネルギーがいるんですよね。自己紹介代わりに、自分の人生をまとめた本があったらいいなって思ってたら、出版したいって言ってくださる方が現れて。100ページくらいでスムーズに読める本を、いま編集者の方たちと一緒に作っているところなんです」

本人いわく、「自己紹介代わりの本」。読者がその本を読み、彼の人生のラインを掴んでくれた状態で、もう一歩踏み込んだビジョンを聞いてもらえれば——という、伝達の効率を考えた一冊である。同時にそれは、これからエコシステムを一緒に作る仲間を見つけるための、一種のラブレターでもあるだろう。

グラウンドに整列した野球チームの集合写真

「なんで、みんなやらないんだろう」

取材を通じて、山内さんが何度も口にしたフレーズがある。

「なんでみんなやらないんだろう、って、純粋に思っちゃうんですよ」

学生をやりながらプロを目指せる場所がないのも、京都の空き家が活用されていないのも、独立リーグにビジネスセンスが入っていないのも、海外の選手・指導者が日本でプレーしたい・指導したいと思っているのに受け皿がないのも——ぜんぶ、彼にとっては「なんでやらないんだろう」案件なのである。

そして、その「なんで」に答えを書きにいくのが、山内さん自身だ。

「もうね、できる気しかしてないんですよ。絶対できるやろ、って。必要だし、求められてる。それは肌感覚として、はっきり感じてるんです」

彼が3カ国の海外と日本の独立リーグで見てきた景色、ポーランドの代表者の熱、宮崎での朝、チェコ代表のユニフォーム、そして「俺はお前をリスペクトしてる」と言ってくれた敵将の声——。

それらの一つひとつが、いま京都という場所に集約されようとしている。

「最終的には、日本そのものが面白くなる。野球を入り口に、地域も、子どもたちも、海外との関係も、ぜんぶ少しずつ循環し始める。僕一人では作れないんで、仲間を集めながら、ちゃんとした適切なペースで、適切にやっていきたい」

急がない。けれど、止まらない。

世界を9年間歩いた青年が、いま京都の地面にしゃがみこんで、小さな種を植えようとしている。その種が芽を出し、葉を広げ、隣の畑にも飛んでいく頃には、日本の野球文化は、もう少し風通しのよい顔をしているかもしれない。

「楽しんでやる」という、当たり前のはずだったその一言を、いま改めて、当たり前にしていくために——。山内さんの挑戦は、ここから始まる。

室内で笑顔を見せる野球チームの仲間たちとの集合写真

書籍:「地球の裏でマウンドに立つ」はこちらから

https://for-good.net/project/1003581

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【第3回】「障がいのある人は、組織の“触媒(カタリスト)”になる」――能力主義の次の風景へ。 https://chiehiro.com/idegutisan3/ Tue, 19 May 2026 14:39:22 +0000 https://chiehiro.com/?p=2260

法定雇用率という「コスト」か、社会貢献という「美談」か。長くこの二項対立で語られてきた障がい者雇用に、「組織の触媒(カタリスト)」という第三の視点を。全3回の最終回。]]>

※この記事は、井手口誠さんへのインタビュー連載(全4回)の第3回です。▶ 第1回から読む

障がい者雇用は「コスト」か「美談」か――新しい社会の実装に向けて

障がい者雇用の話になると、議論はだいたい二つに割れる。

ひとつは「コスト」の話。法定雇用率2.6%という義務、達成できなければ徴収される納付金、消化試合のように設けられる特例子会社。もうひとつは「美談」の話。社会貢献として障がいのある方を雇い、企業の評判が高まるという物語。

コストか、美談か。日本の障がい者雇用は、長くこの二項対立の中で語られてきた。

福岡で社会福祉士として就労支援の現場に立つ井手口誠さんは、この二項対立そのものを退ける。「障がいのある人は、組織の触媒になる」と井手口さんは言う。化学反応における触媒のように、その人がい続けることで、周囲の組織がじわりと変わっていく――そういう役割の話である。

これは、コストでも美談でもない、第三の風景だ。

対話の中で生まれた、ひとつの言葉——障がい者雇用を「触媒」と捉え直す

「触媒」という言葉が井手口さんの口から出たのは、5時間に及んだ取材の終盤のことでした。

障がい者雇用の話題から、AI時代に人間の仕事はどう変わるか、という話題に流れていく中で、ふと井手口さんがこう言ったのです。

「障がいのある人って、組織にとっての触媒になり得るんじゃないかと思っていて」

井手口さんは続けます。

「触媒って、自分自身は変化しないんだけど、周りの反応を促進するじゃないですか。組織の中に障がいのある人がい続けることで、周りが変わっていく。そういう存在になり得るんじゃないかな、って」

これまで井手口さんが考えてきた「障がい者雇用」の文脈は、企業の利益に貢献するか・しないか、という生産性の議論でした。多くの先進的な企業が、障がい者雇用を「コスト」から「戦力」へと位置づけ直そうとしている動きも知っています。

けれど、井手口さんが取材中に組み上げたのは、それとはまた別の絵でした。

「個人としての生産性ではなくて、その人が組織にいることで、周りの生産性や、ハッピーや、活性化が引き出される。そういう価値です」

対話の中でその場で立ち上がってきたこの構想が、井手口さんの今後の事業構想の核にもなりつつあります。

「居続けることで、周りが変わる」——触媒とは何を指すのか

触媒という比喩を、もう少し具体的に解きほぐしてみましょう。

井手口さんが繰り返し語ったのは、「居続けることで、周りが変わる」というフレーズです。

「これまでは、障がいのある人がそこにいることで、化学反応を起こす前に、周りが先に壊れちゃってたんですよ。負担になる、効率が落ちる、って言われて、結局その人がいられなくなる」

井手口さんが本当に作りたいのは、その人が「居続けられる」仕組みです。

「居続けることができる仕組みを作れたら、僕は周りが変われると思うんです」

井手口さんが思い浮かべているのは、たとえばこんな場面です。小学校の教室に、知的障がいのある同級生がいたとします。子どもたちは、大人のように排除しません。むしろ、当たり前のように手伝いに行く。喧嘩することもある。けれど、関わることそのものを止めようとはしない。

「子どもは、ちゃんとぶつかり合っているんですよ。でも大人は、避けるんです。避けるという行為そのものが、関係を壊している。それに気づいていない」

組織の中で障がいのある人と「ぶつかり合う」ためには、組織の側に余裕が必要です。時間的な余裕、人員的な余裕、そして何より、人を見るまなざしの余裕。井手口さんが第2回で語ったDXとAIの取り組みは、すべてこの余裕を生み出すための前提条件だと位置づけられています。

「余裕がない組織に、触媒は入れられないんですよ。余裕を作ることが、まず先なんです」

机を挟んで向き合い対話する二人のイラスト

AI時代に、何が「人間にしかできない」か

井手口さんが触媒という発想に辿り着いた背景には、AI時代の労働観があります。

ホワイトカラーの定型業務は、これからAIに置き換えられていく――井手口さんはそう見ています。書類仕事、データ集計、定型的な分析。それらは人間がやるよりもAIがやるほうが速く、正確で、安い。これは福祉の現場でも同じです。

では、人間にしかできない仕事とは何か。

「人と人との関わりの中でしか得られない、一次情報みたいなもの。あとは、なんていうか、その場の空気を変えるような、人間臭い力」

ここに、触媒の発想が結びついてきます。

従来の労働観では、障がいのある人は「定型業務をどれだけこなせるか」で評価されてきました。だから生産性の議論になり、コストの話になっていた。けれどAIが定型業務を引き受ける時代には、そもそも「定型業務をこなす能力」の価値が下がっていきます。

「これからは、額に汗をかくとか、体を使った仕事とか、人間しかできない関わり方とか――そういうものの価値が、むしろ上がっていくと思うんですよ」

井手口さんは、海外で「ブルーカラー・ビリオネア」が生まれているという話を引きながら、価値の重心が移動しつつあることを指摘します。同じことが、組織内の人間の役割にも起きる――井手口さんはそう見ています。

均質な労働力としての「人材」が値下がりする一方で、組織にハッとした気づきをもたらす「触媒」の価値は上がっていく。井手口さんの構想は、AI時代の労働観の転換と、ぴたりと噛み合っています。

優しい組織は、結果として伸びる

触媒構想は、慈善や倫理の話ではありません。井手口さんは、これを企業経営の話として語ります。

「触媒のいる組織は、結果として伸びると思うんですよ」

井手口さん自身、人材業界で長くキャリアを積んできた人物の言葉を引きながら、こう言います。「投資する価値のある会社って、エゴで動いていないんですよ。利他的なんです」

売上を最優先に掲げず、「誰かのために何かをして、その結果として対価が返ってくる」という発想で動いている組織。社員に対しても「この会社で成長すること」だけでなく「外に出ても通用する人材になる」ことを意識して育てている組織。井手口さんが見てきた中で「伸びる組織」には、こうした共通項があったと言います。

「人としての権利を守る、という意識が、組織の中に芽生えていったら――その組織は絶対伸びるんですよ」

ここで再び、グローバル定義の中核にある「人権」というキーワードが戻ってきます。第1回で語られた「日本人は人権をインストールされていない」という問題意識は、第3回では企業組織の話に接続されます。

障がいのある人が触媒として組織に入ることで、組織の中に「人権」という意識が芽生え始める。それは多様性研修や社内ポスターでは生まれない、もっと根源的な変化です。

「あの人と、どう一緒に働くか――それを考えざるを得なくなった時に、組織は初めて『人を見る』ようになる。そこから組織が変わるんです」

夕暮れの川沿いのまちを歩く人々のイラスト

カタリスト――福祉技術を、中小企業へ

井手口さんが構想しているのは、この触媒構想を「事業」として立ち上げることです。

具体的にはこういう設計です。中小企業に対して、障がいのある方の雇用を支援するサービスを提供する。ただし、それは従来型の人材紹介ではなく、雇用する企業側の組織風土や業務設計まで含めて伴走する。福祉の専門家(ソーシャルワーカー)が、企業の中に入って、障がいのある人と組織の「化学反応」が起きる土壌を整える――そういうサービスです。

「人材派遣じゃなくて、人材育成と定着まで含めた仕事ですね。最初のところだけ、ソーシャルワークの専門家がきちんと入っていって、企業のやっていることと、その人の特性を、うまく折り合いつけていく」

井手口さんの中では、これは第2回で語った「補助金に頼らないビジネスモデル」の具体化でもあります。福祉の技術を、中小企業向けの正規のサービスとして売る。対価をきちんと得て、持続可能に回していく。これによって、ソーシャルワークの技術は「弱者ビジネス」から、もっと広い社会の経済活動の中に組み込まれていきます。

「中小企業さんとかにとって、面白いきっかけになるはずなんですよ。新しい発想が生まれるとか、組織が一段強くなるとか」

若い世代を、担い手として迎える

もうひとつ、井手口さんが力を込めて語るのが、若い世代の参加です。

「この事業は、僕みたいなおじさんがやると、どうしても『胡散臭く』なってしまうんですよ」

少し笑いながら、井手口さんはそう言います。

「学生か、社会人2、3年目くらいの、まだキラキラしてる時期の若い人にやってほしい。社会に対して『何かいいことがしたい』って思っている人が、自分のスキルとして触媒の仕事を覚えていく――そういう設計のほうが、絶対うまく回ります」

井手口さん自身は、その若い担い手たちの「カバン持ち」だった経験から、相談相手・伴走者の役回りに徹したい、と言います。20代の頃、市民活動の世界に飛び込み、師匠の隣で多くを学んだ井手口さんが、今度は次の世代にそれを返していく――そういう循環です。

「僕がカバン持ちをしてきた経験を、AIの力も借りながら、若い人たちに渡していきたい」

第2回で触れた「ソーシャルワークのデータベース化」「実践知の共有財産化」という構想は、ここで人材育成の文脈と接続します。ベテランの暗黙知を、若い担い手が利用できる形に変換する。井手口さんは、これを思想の話ではなく、具体的な仕組みづくりの話として語ります。

オフィスで働く人とデジタルネットワークをつなぐイラスト

ソーシャルワークを、社会に実装する

ここまでの3回を、井手口さん自身の言葉でまとめれば、こうなるでしょう。

「ソーシャルワークを、社会の中にきちんと実装したいんですよ」

世界標準の「グローバル定義」に書かれているソーシャルワークは、社会変革・社会開発・社会的結束・エンパワメントと解放を含む、広大な射程の専門職であり学問でした。

ところが日本では、それが「制度に基づくサービスの相談員」へと矮小化され、補助金で回るビジネスへと固定されてきた。井手口さんが「消費される福祉」と呼んだのは、この矮小化の風景です(第1回)。

矮小化を解除する手段として、井手口さんはAIとDXを使って現場に余裕を作り、ソーシャルワークを健常者にも届くサービスへと拡張しようとしています(第2回)。そして、その拡張の先に「触媒」という新しい役割概念を据え、組織と社会のあり方そのものを変えに行こうとしている(第3回)。

ひとつひとつは別々の話に見えるかもしれません。けれど、井手口さんの中では、これらはすべて一本の線でつながっています。

「ソーシャルワークの土台にあるのは、人と環境の相互作用なんですよ。人が、人だけじゃなくて、人と環境の中で生きている――その全体に働きかけるのが、ソーシャルワークなんです」

人と環境の相互作用。それは、AIと利用者と相談員が三人で囲むテーブルにも、障がいのある人を中心に変わっていく組織にも、補助金に頼らない事業の設計図にも、すべて貫かれている視点です。

桜の下に多様な人々が集うまちのイラスト

最後に、ひとつのフレーズ

取材中、井手口さんが何度も口にした言葉があります。

「みんながハッピーになる仕組みを作りたい」

素朴に聞こえるかもしれません。けれど、井手口さんがこの言葉に込めているのは、「弱者を救う」という一方向の善意ではなく、利用者も、支援者も、企業も、地域も、それぞれの立ち位置から少しずつ豊かになっていく――そういう全方位的な構想です。

ソーシャルワークのグローバル定義の中核に「人々のエンパワメントと解放を促進する」という一節があります。井手口さんが描いている風景は、この「人々」の範囲を、これまでの日本の福祉が想定してきたよりも、ずっと広くとろうとしているように見えます。

障がいのある人も、ない人も。福祉の現場にいる人も、いない人も。元気な人も、いまは元気でない人も。

みんなが、もう少しハッピーになる仕組みを、福祉の技術を使って設計し直したい――。

井手口誠さんの挑戦は、ソーシャルワーカーひとりの仕事の話ではない。日本社会が長らく見ないふりをしてきた空白を埋めに行く、もっと大きな試みである。

(第4回、最終回に続く)

▶ 次回:【第4回(最終回)】「社会を、変えていい仕事」――ソーシャルワーカーが狙う、本当の射程

【連載】井手口誠さんインタビュー(全4回)

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