チエヒロ | 本質的な「知恵」を、もっともっと広げる! https://chiehiro.com 読んだあと、ちょっとだけ世界の見え方が変わる。各分野の専門家に聞いた"本当のところ"を、わかりやすく、面白く。 Tue, 26 May 2026 08:20:34 +0000 ja hourly 1 https://chiehiro.com/wp-content/uploads/2026/03/icon-1-150x150.png チエヒロ | 本質的な「知恵」を、もっともっと広げる! https://chiehiro.com 32 32 根性論からの、卒業。世界の野球場を渡り歩いた24歳の山内さんが、挑み芽吹かせる「みんなが楽しめる野球」のエコシステム https://chiehiro.com/yamauthi1/ Tue, 26 May 2026 08:17:46 +0000 https://chiehiro.com/?p=2269

アメリカ独立リーグ、ベネズエラからアルゼンチンへ移った即席プロリーグ、ポーランドのグラウンド、宮崎サンシャインズ、そしてもう一度ポーランドへ——。24歳の山内さんは、大学3年から9年間、3カ国の海外と日本の独立リーグを、 ... ]]>

アメリカ独立リーグ、ベネズエラからアルゼンチンへ移った即席プロリーグ、ポーランドのグラウンド、宮崎サンシャインズ、そしてもう一度ポーランドへ——。24歳の山内さんは、大学3年から9年間、3カ国の海外と日本の独立リーグを、自分の身体で渡り歩いてきた青年です。「俺はお前をリスペクトしてる」。アメリカで一人の指導者からかけられたその一言が、彼のなかで静かに芽を出し、いま京都で根性論からの脱却と、みんなが楽しめる野球の追求というかたちで、小さな種になろうとしています。「学生のまま」「普段の仕事の延長線上」に、“本気で野球と向き合える場所”をつくり、海外と地域と若者を一つの円でつなぐ——その壮大な構想の中身と、原点について伺いました。

■ 「魂が、震えたんです」——アメリカで聞いた、たった一言。

物語の核に、まずこの場面を置きたい。

大学3年生のとき、山内さんはアメリカの独立リーグに飛び込んだ。最初に所属したチームでは、思うような結果を出せずに苦しんでいた。クビと昇格が紙一枚で隣り合うような環境のなかで、「結果を出さなければ」というプレッシャーが、かえってパフォーマンスを縮こませる。誰もが経験するであろう負のループに、山内さんも嵌まっていた。

ある日、彼のなかで「目の前のことを、全力でやりきるしかない」とスイッチが入る。

不思議なもので、覚悟を決めた途端に、結果は出始めた。すると、その姿を見ていたのが、ライバルチームの監督だった。マイナーリーグへの登竜門として上位に位置する強豪チームの監督で、現役時代はメジャーリーグの第一線で活躍してきた経歴の持ち主だった。

「お前、いいな」

山内さんに、その監督が最初にかけた言葉は、彼が日本の野球で一度も聞いたことのないものだった。

「『俺はお前をリスペクトしてる』と。『お前のやることをやればいい。ダメだったら俺の責任、よかったらお前の手柄。それだけだ。やってこい』と言われたんです。野球指導者からそんな言葉を言われたのは初めて。魂が震えました」

リスペクト。

その一言が、青年の体内に深く刻まれた。それまでは、否定される空気もあった。結果が出ないと、人格そのものを問い直されるような感覚。そのなかで自信を擦り減らしてきた青年に、遠いアメリカの地で出会った一人の指導者が、向き合ってくれた。

「あの人は、選手それぞれが頑張っているポイントをちゃんと見て、『俺はそこをリスペクトしてる』と的確に言ってくれるんです。やみくもに褒めるのではなく、一人ひとりの努力の輪郭をちゃんと分かって、その上で言葉を渡してくれる。だから、響いたんですよね」

この一言が、いま京都で芽吹こうとしている、根性論を超えて選手が伸びやかに育つ野球文化への構想の、最も深い種になっている。

■ 9年で、抱えるようになった「課題感」。

帰国した山内さんが胸に持ち帰ったのは、世界の景色と、もう一つ、いくつかの課題感だった。

「9年間でいろんな国を見て、いろんな選手や指導者と関わってきたなかで、自分のなかに少しずつ残っていったものがあるんです」

たとえば、若い才能のことだ。世界中の野球の現場で、「もっと伸びるはずだったのに」と感じる選手たちに、山内さんは何度も出会ってきた。本人の資質ではなく、置かれた環境や仕組みのなかで、その芽が伸びきれずに終わっていく姿。それは日本に限った話でもないが、日本独自の構造があるのも事実だと、彼は感じている。

「指導の現場って、選手の自主性をどう育てるかと、まとまりをどう作るかのバランスが、すごく難しいんですよね。一方向に振れすぎると、せっかくの才能が伸びにくくなる側面もある。ただこれは、誰かが悪いという話じゃなくて、長年積み重なってきた文化のかたちなので、簡単に変えられるものじゃないんです」

もう一つ、彼が感じてきた課題感がある。日本の野球には、学生をやりながら本気でプロを目指せるルートが、ほぼ用意されていないという現実だ。

「サッカーだったらJリーグのユース、クラブチーム、高校の部活と、いろんな選択肢がありますよね。野球って、そこがもう少しスリムなんです。もし学生のまま、プロを本気で目指したいと思ったら、いまは大学を休学して独立リーグに行くしかない。それって、ハードルが高いじゃないですか」

ここで山内さんが語っているのは、誰かを批判する話ではない。彼自身が9年間を歩いてきた身体の記憶として、「こうだったら、もっと多くの人が生きやすい・伸びやすいのに」と感じてきたこと、その素朴な観察である。

そして、その観察から生まれてきたのが、「根性論を超えて、好きを好きなまま続けられる場所をつくる」という思想と、それを「エコシステム」として実装するという構想だった。

■ 好きを、好きなまま、やりきれる場所をつくる。

「根性論からは、もう卒業していいんじゃないかなって、思ってるんですよ」

山内さんは、自分の思想をそう表現する。

「これは、野球を好きで始めた人が、好きなまま野球をやりきれる、というイメージなんです。途中で挫折して離れちゃう人もいれば、続けるなかで野球そのものへの愛が薄まっていってしまう人もいる。それって、ものすごくもったいないことだと思っていて」

野球を続ける動機が、いつのまにか「認められたい」「結果を出さないと居場所がない」というプレッシャーに置き換わっていく——彼は、自分自身の経験のなかでも、周囲の選手を見てきた経験のなかでも、その入れ替わりを何度も目撃してきた。

「もちろん、悔しさをバネに伸びる人もいます。それを否定したいわけじゃないんです。ただ、もう一つの選び方があってもいいよね、と思っていて。指導者が選手のことを本当に見て、『俺はお前のここをリスペクトしてる』と言葉にしてくれて、選手がのびのびと自分のスタイルで野球を続けられる場所。そういう場所が、もっと増えてもいいんじゃないかな、と」

アメリカで山内さんの魂を震わせた一言が、ここでもう一度立ち上がる。

「楽しんでやる、って軽く聞こえるかもしれないけど、実はめちゃくちゃ強い文化なんですよ。好きなまま野球をやりきった人は、いつかその経験を、また次の世代に渡せる指導者になるんです。そうやって、楽しんで野球をやる文化が次の世代に循環していく。日本全国に広がっていく。それが、僕がいちばん大事にしたいところで」

山内さんが描いているのは、個人の感情の問題ではない。指導者の世代交代を通じて、文化として循環していく仕組みの問題なのである。

■ 「すっからかんに、空いてるんですよ」——誰も手をつけていない空白地帯。

この思想を文化として広げるためには、それを実装する「場所」が要る。山内さんが見据えているのは、まさにここである。

「日本の野球には、学生をやりながら本気でプロを目指せるルートが、ほぼないんですよね。これって、誰も模索していない空白地帯なんです。すっからかんに、きれいに空いてる」

彼は笑いながらそう言うが、目は真剣だった。

「大学生からプロになる選手は、たくさんいるじゃないですか。その人たちは別に学位を取りに大学に行ってるわけじゃない。学生をやりながらでも、プロは目指せるはずなんですよ。理屈の上では」

理屈の上では成立するはずなのに、実際にはそのルートが存在しない。なぜか。それは、現状の構造のなかで誰もそこに手をつけてこなかったから、というシンプルな理由に尽きる。

「だったら、僕がやればいい。本当にそれだけのことなんです」

——その「ただそれだけのこと」を実装するのが、これから明かす京都の構想である。

■ 京都に、海外と学生が交わるチームを作る。

山内さんが描いている絵を、できるだけそのまま紹介したい。

舞台は京都。学生数が日本でいちばん多いこの街に、彼は「学生をやりながら本気で野球と向き合えるチーム」を立ち上げようとしている。次の候補地として福岡も視野に入っているが、まずは京都だ。

集客と選手集めの軸として彼が考えているのは、「海外野球」というコンテンツである。

「日本の野球って、実は世界的に見てめちゃくちゃ評価が高いんですよ。野球の世界ランキングで、男子・女子・男子ソフト・女子ソフトの全部で日本は1位なんです。WBCも、過去6回中3回が日本優勝。圧倒的なんですよ」

日本野球の世界的なステータスは、山内さんが海外の現場で何度も実感してきた事実だ。海外の指導者や選手たちは、日本でプレーしてみたい・指導を受けてみたいというニーズを、漠然とではなく具体的に持っている。

「ヨーロッパの代表クラスの指導者たちと話していると、『日本に行きたい』って人がたくさんいるんです。でも、その受け皿がないんですよね。だったら、僕が呼んでくればいい」

具体的な絵はこうだ。海外から20人の選手と、日本の学生20人。京都を拠点に、彼らが一緒に練習し、リーグ戦を行う。海外の指導者が日本人選手を教え、日本の指導の現場が海外の選手を受け入れる。学生は学業を続けながら、本気の野球と毎日向き合える。

「地域の方々にホームステイをお願いできたら、地域の方々と海外選手の交流も生まれます。地元企業さんがスポンサーや生活のサポートに入ってくださって、選手はオフシーズンにそこでバイトやインターンをする。野球以外の選択肢も自然に見えてくるし、その上でプロを目指す人はそのままプロを目指す。両方のレールが、ちゃんと用意されている場所をつくりたいんです」

野球を入り口にして、地域・国際交流・教育・スポンサーシップが一つの円のなかで回り始める。これが、彼の言う「エコシステム」である。

■ 京都の空き家、地方創生、独立リーグの再設計。

エコシステムを支える周辺ピースも、彼の頭のなかではすでに動き始めている。

たとえば、京都市が抱える空き家の問題。これは行政課題として広く知られているが、選手たちの宿舎としてうまく組み合わせれば、地域課題の解決と、選手の生活基盤の確保が同時に進む。

「いま、京都市の空き家関係の方ともお話を進めようとしているところで。提携できれば、海外の選手も日本人選手も、住む場所が確保できる。地域にとっても、空き家が活用される。両方にメリットがあるじゃないですか」

独立リーグそのものの可能性についても、彼は冷静に見ている。

「独立リーグって、いまどんどん増えているんですよ。プロ野球とは違うルートで才能を伸ばす場所として、すごく価値がある。ただ正直、運営の面ではまだ伸びしろがあるところもあって、ビジネスとして成立させるための工夫の余地が大きい領域なんですよね」

ここで彼が語っているのは、批判ではなく、機会の話である。地域住民の選抜チームと選手チームの対戦企画、お笑い芸人の客寄せイベント、引退したスターによる「マスターズリーグ」的な試合——。エンターテインメントと地方創生とプロ志望のレールを、すべて野球の球場の上で同時並行に走らせる。

「野球場のなかにレストランをつくって、そこでチケットを配るとか、地域の人にホームページの運用をお願いするとか、いろんなやり方があると思うんですよ。ちゃんと設計すれば、野球は地方創生のキラーコンテンツになる」

そして、彼の構想はさらに先を見ている。

「野球で地域の循環ができたら、そこからサッカーとか、ラグビーとか、アートとか、いろんな文化に展開できるはずなんですよ。最初の入り口が野球で、最終的には日本の地域そのものを、もっと面白くできる」

野球を通して、日本そのものの構造を組み替えていく——壮大な絵だが、彼のなかでは無理筋ではない。むしろ、自分が9年間世界を歩いてきたからこそ、見えている地続きの絵なのである。

■ 「自分の功績だ」と誇るやつには、なりたくない。

ここまで読むと、山内さんは野心満々の起業家のように見えるかもしれない。だが、彼が一貫して大切にしているのは、むしろその逆の姿勢だ。

「もし将来このエコシステムが回り始めたとして、それを『自分の功績だ』って誇るような人間にだけは、なりたくないんですよ。それ、めちゃくちゃダサいじゃないですか」

エコシステムは、一人では作れない。彼自身、それを身体で理解している。

「最初は自分でやらないといけない部分もあるんです。でも、ある段階からは、周りの人の力やピースをフル活用して、持ちつ持たれつの関係を一緒に築いていく。そのうえで、僕がだんだん全体を整えていくっていうのが、いちばん持続可能なやり方だと思っていて」

彼が好む比喩は、ウイルス感染とオセロだ。

「『なるほど、それ面白いやん』って人に種のように渡していくと、それが少しずつ感染していって、どこかで一気にオセロみたいにひっくり返る瞬間がくる。そういう広がり方が、いちばん健全だと思うんです」

中央集権ではなく、フラクタルな増殖。自分が全体の頂点に立つのではなく、自分の構想をたくさんの人のなかに分散させ、それぞれの場所で勝手に発酵させていく。彼が描いているのは、そういう種類のリーダーシップなのだ。

「だから僕、いま意識してやっているのは、自分の言葉をちゃんと言語化することと、それをまっすぐ人に伝えることなんです。営業の現場に1ヶ月間身を置いて日々鍛錬しているのも、そのためで。一方的に思いをぶつけるだけじゃなくて、相手の話をちゃんと聞いて、相手の文脈に翻訳して伝える、そういう体力をつけていきたい」

世界を漂流してきた青年が、いま身につけようとしているのは、「伝える力」である。

■ 2028年に向けて、いま、種をまいている。

エコシステム本体の本格スタートは、来年から再来年——彼の頭のなかでは、2028年が一つの目標として置かれている。それまでに、種をまける場所には、できる限りまいておきたい。

今年の試験的な動きとしては、すでに具体的な日程が動いている。日本から海外へ送り出すイベントと、海外を日本へ迎え入れるイベントの両方を、夏と秋に分けて実施する予定だ。ポーランドとの関係を起点に、「送り出す」と「受け入れる」の両方のロールモデルを、まず自分で実装してみせる。

「いきなり大きく始めるより、小さく回してみて、ちゃんと回ることを確認しながらスケールさせていくほうが、結局いちばん早いと思うんですよ」

そして、もう一つの種が、いま彼の手元で形になりつつある「本」だ。

「自分のことをこうやって毎回ゼロから話すのって、けっこうエネルギーがいるんですよね。自己紹介代わりに、自分の人生をまとめた本があったらいいなって思ってたら、出版したいって言ってくださる方が現れて。100ページくらいでスムーズに読める本を、いま編集者の方たちと一緒に作っているところなんです」

本人いわく、「自己紹介代わりの本」。読者がその本を読み、彼の人生のラインを掴んでくれた状態で、もう一歩踏み込んだビジョンを聞いてもらえれば——という、伝達の効率を考えた一冊である。同時にそれは、これからエコシステムを一緒に作る仲間を見つけるための、一種のラブレターでもあるだろう。

■ 「なんで、みんなやらないんだろう」

取材を通じて、山内さんが何度も口にしたフレーズがある。

「なんでみんなやらないんだろう、って、純粋に思っちゃうんですよ」

学生をやりながらプロを目指せる場所がないのも、京都の空き家が活用されていないのも、独立リーグにビジネスセンスが入っていないのも、海外の選手・指導者が日本でプレーしたい・指導したいと思っているのに受け皿がないのも——ぜんぶ、彼にとっては「なんでやらないんだろう」案件なのである。

そして、その「なんで」に答えを書きにいくのが、山内さん自身だ。

「もうね、できる気しかしてないんですよ。絶対できるやろ、って。必要だし、求められてる。それは肌感覚として、はっきり感じてるんです」

彼が3カ国の海外と日本の独立リーグで見てきた景色、ポーランドの代表者の熱、宮崎での朝、チェコ代表のユニフォーム、そして「俺はお前をリスペクトしてる」と言ってくれた敵将の声——。

それらの一つひとつが、いま京都という場所に集約されようとしている。

「最終的には、日本そのものが面白くなる。野球を入り口に、地域も、子どもたちも、海外との関係も、ぜんぶ少しずつ循環し始める。僕一人では作れないんで、仲間を集めながら、ちゃんとした適切なペースで、適切にやっていきたい」

急がない。けれど、止まらない。

世界を9年間歩いた青年が、いま京都の地面にしゃがみこんで、小さな種を植えようとしている。その種が芽を出し、葉を広げ、隣の畑にも飛んでいく頃には、日本の野球文化は、もう少し風通しのよい顔をしているかもしれない。

「楽しんでやる」という、当たり前のはずだったその一言を、いま改めて、当たり前にしていくために——。山内さんの挑戦は、ここから始まる。

書籍:「地球の裏でマウンドに立つ」はこちらから

https://for-good.net/project/1003581

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【第3回】「障がいのある人は、組織の“触媒(カタリスト)”になる」――能力主義の次の風景へ。 https://chiehiro.com/idegutisan3/ Tue, 19 May 2026 14:39:22 +0000 https://chiehiro.com/?p=2260

――新しい社会の実装に向けて 障がい者雇用の話になると、議論はだいたい二つに割れる。 ひとつは「コスト」の話。法定雇用率2.6%という義務、達成できなければ徴収される納付金、消化試合のように設けられる特例子会社。もうひと ... ]]>

――新しい社会の実装に向けて

障がい者雇用の話になると、議論はだいたい二つに割れる。

ひとつは「コスト」の話。法定雇用率2.6%という義務、達成できなければ徴収される納付金、消化試合のように設けられる特例子会社。もうひとつは「美談」の話。社会貢献として障がいのある方を雇い、企業の評判が高まるという物語。

コストか、美談か。日本の障がい者雇用は、長くこの二項対立の中で語られてきた。

福岡で社会福祉士として就労支援の現場に立つ井手口誠さんは、この二項対立そのものを退ける。「障がいのある人は、組織の触媒になる」と井手口さんは言う。化学反応における触媒のように、その人がい続けることで、周囲の組織がじわりと変わっていく――そういう役割の話である。

これは、コストでも美談でもない、第三の風景だ。

対話の中で生まれた、ひとつの言葉

「触媒」という言葉が井手口さんの口から出たのは、5時間に及んだ取材の終盤のことでした。

障がい者雇用の話題から、AI時代に人間の仕事はどう変わるか、という話題に流れていく中で、ふと井手口さんがこう言ったのです。

「障がいのある人って、組織にとっての触媒になり得るんじゃないかと思っていて」

井手口さんは続けます。

「触媒って、自分自身は変化しないんだけど、周りの反応を促進するじゃないですか。組織の中に障がいのある人がい続けることで、周りが変わっていく。そういう存在になり得るんじゃないかな、って」

これまで井手口さんが考えてきた「障がい者雇用」の文脈は、企業の利益に貢献するか・しないか、という生産性の議論でした。多くの先進的な企業が、障がい者雇用を「コスト」から「戦力」へと位置づけ直そうとしている動きも知っています。

けれど、井手口さんが取材中に組み上げたのは、それとはまた別の絵でした。

「個人としての生産性ではなくて、その人が組織にいることで、周りの生産性や、ハッピーや、活性化が引き出される。そういう価値です」

対話の中でその場で立ち上がってきたこの構想が、井手口さんの今後の事業構想の核にもなりつつあります。

「居続けることで、周りが変わる」

触媒という比喩を、もう少し具体的に解きほぐしてみましょう。

井手口さんが繰り返し語ったのは、「居続けることで、周りが変わる」というフレーズです。

「これまでは、障がいのある人がそこにいることで、化学反応を起こす前に、周りが先に壊れちゃってたんですよ。負担になる、効率が落ちる、って言われて、結局その人がいられなくなる」

井手口さんが本当に作りたいのは、その人が「居続けられる」仕組みです。

「居続けることができる仕組みを作れたら、僕は周りが変われると思うんです」

井手口さんが思い浮かべているのは、たとえばこんな場面です。小学校の教室に、知的障がいのある同級生がいたとします。子どもたちは、大人のように排除しません。むしろ、当たり前のように手伝いに行く。喧嘩することもある。けれど、関わることそのものを止めようとはしない。

「子どもは、ちゃんとぶつかり合っているんですよ。でも大人は、避けるんです。避けるという行為そのものが、関係を壊している。それに気づいていない」

組織の中で障がいのある人と「ぶつかり合う」ためには、組織の側に余裕が必要です。時間的な余裕、人員的な余裕、そして何より、人を見るまなざしの余裕。井手口さんが第2回で語ったDXとAIの取り組みは、すべてこの余裕を生み出すための前提条件だと位置づけられています。

「余裕がない組織に、触媒は入れられないんですよ。余裕を作ることが、まず先なんです」

AI時代に、何が「人間にしかできない」か

井手口さんが触媒という発想に辿り着いた背景には、AI時代の労働観があります。

ホワイトカラーの定型業務は、これからAIに置き換えられていく――井手口さんはそう見ています。書類仕事、データ集計、定型的な分析。それらは人間がやるよりもAIがやるほうが速く、正確で、安い。これは福祉の現場でも同じです。

では、人間にしかできない仕事とは何か。

「人と人との関わりの中でしか得られない、一次情報みたいなもの。あとは、なんていうか、その場の空気を変えるような、人間臭い力」

ここに、触媒の発想が結びついてきます。

従来の労働観では、障がいのある人は「定型業務をどれだけこなせるか」で評価されてきました。だから生産性の議論になり、コストの話になっていた。けれどAIが定型業務を引き受ける時代には、そもそも「定型業務をこなす能力」の価値が下がっていきます。

「これからは、額に汗をかくとか、体を使った仕事とか、人間しかできない関わり方とか――そういうものの価値が、むしろ上がっていくと思うんですよ」

井手口さんは、海外で「ブルーカラー・ビリオネア」が生まれているという話を引きながら、価値の重心が移動しつつあることを指摘します。同じことが、組織内の人間の役割にも起きる――井手口さんはそう見ています。

均質な労働力としての「人材」が値下がりする一方で、組織にハッとした気づきをもたらす「触媒」の価値は上がっていく。井手口さんの構想は、AI時代の労働観の転換と、ぴたりと噛み合っています。

優しい組織は、結果として伸びる

触媒構想は、慈善や倫理の話ではありません。井手口さんは、これを企業経営の話として語ります。

「触媒のいる組織は、結果として伸びると思うんですよ」

井手口さん自身、人材業界で長くキャリアを積んできた人物の言葉を引きながら、こう言います。「投資する価値のある会社って、エゴで動いていないんですよ。利他的なんです」

売上を最優先に掲げず、「誰かのために何かをして、その結果として対価が返ってくる」という発想で動いている組織。社員に対しても「この会社で成長すること」だけでなく「外に出ても通用する人材になる」ことを意識して育てている組織。井手口さんが見てきた中で「伸びる組織」には、こうした共通項があったと言います。

「人としての権利を守る、という意識が、組織の中に芽生えていったら――その組織は絶対伸びるんですよ」

ここで再び、グローバル定義の中核にある「人権」というキーワードが戻ってきます。第1回で語られた「日本人は人権をインストールされていない」という問題意識は、第3回では企業組織の話に接続されます。

障がいのある人が触媒として組織に入ることで、組織の中に「人権」という意識が芽生え始める。それは多様性研修や社内ポスターでは生まれない、もっと根源的な変化です。

「あの人と、どう一緒に働くか――それを考えざるを得なくなった時に、組織は初めて『人を見る』ようになる。そこから組織が変わるんです」

カタリスト――福祉技術を、中小企業へ

井手口さんが構想しているのは、この触媒構想を「事業」として立ち上げることです。

具体的にはこういう設計です。中小企業に対して、障がいのある方の雇用を支援するサービスを提供する。ただし、それは従来型の人材紹介ではなく、雇用する企業側の組織風土や業務設計まで含めて伴走する。福祉の専門家(ソーシャルワーカー)が、企業の中に入って、障がいのある人と組織の「化学反応」が起きる土壌を整える――そういうサービスです。

「人材派遣じゃなくて、人材育成と定着まで含めた仕事ですね。最初のところだけ、ソーシャルワークの専門家がきちんと入っていって、企業のやっていることと、その人の特性を、うまく折り合いつけていく」

井手口さんの中では、これは第2回で語った「補助金に頼らないビジネスモデル」の具体化でもあります。福祉の技術を、中小企業向けの正規のサービスとして売る。対価をきちんと得て、持続可能に回していく。これによって、ソーシャルワークの技術は「弱者ビジネス」から、もっと広い社会の経済活動の中に組み込まれていきます。

「中小企業さんとかにとって、面白いきっかけになるはずなんですよ。新しい発想が生まれるとか、組織が一段強くなるとか」

若い世代を、担い手として迎える

もうひとつ、井手口さんが力を込めて語るのが、若い世代の参加です。

「この事業は、僕みたいなおじさんがやると、どうしても『胡散臭く』なってしまうんですよ」

少し笑いながら、井手口さんはそう言います。

「学生か、社会人2、3年目くらいの、まだキラキラしてる時期の若い人にやってほしい。社会に対して『何かいいことがしたい』って思っている人が、自分のスキルとして触媒の仕事を覚えていく――そういう設計のほうが、絶対うまく回ります」

井手口さん自身は、その若い担い手たちの「カバン持ち」だった経験から、相談相手・伴走者の役回りに徹したい、と言います。20代の頃、市民活動の世界に飛び込み、師匠の隣で多くを学んだ井手口さんが、今度は次の世代にそれを返していく――そういう循環です。

「僕がカバン持ちをしてきた経験を、AIの力も借りながら、若い人たちに渡していきたい」

第2回で触れた「ソーシャルワークのデータベース化」「実践知の共有財産化」という構想は、ここで人材育成の文脈と接続します。ベテランの暗黙知を、若い担い手が利用できる形に変換する。井手口さんは、これを思想の話ではなく、具体的な仕組みづくりの話として語ります。

ソーシャルワークを、社会に実装する

3回にわたる連載を、井手口さん自身の言葉で締めくくれば、こうなるでしょう。

「ソーシャルワークを、社会の中にきちんと実装したいんですよ」

世界標準の「グローバル定義」に書かれているソーシャルワークは、社会変革・社会開発・社会的結束・エンパワメントと解放を含む、広大な射程の専門職であり学問でした。

ところが日本では、それが「制度に基づくサービスの相談員」へと矮小化され、補助金で回るビジネスへと固定されてきた。井手口さんが「消費される福祉」と呼んだのは、この矮小化の風景です(第1回)。

矮小化を解除する手段として、井手口さんはAIとDXを使って現場に余裕を作り、ソーシャルワークを健常者にも届くサービスへと拡張しようとしています(第2回)。そして、その拡張の先に「触媒」という新しい役割概念を据え、組織と社会のあり方そのものを変えに行こうとしている(第3回)。

ひとつひとつは別々の話に見えるかもしれません。けれど、井手口さんの中では、これらはすべて一本の線でつながっています。

「ソーシャルワークの土台にあるのは、人と環境の相互作用なんですよ。人が、人だけじゃなくて、人と環境の中で生きている――その全体に働きかけるのが、ソーシャルワークなんです」

人と環境の相互作用。それは、AIと利用者と相談員が三人で囲むテーブルにも、障がいのある人を中心に変わっていく組織にも、補助金に頼らない事業の設計図にも、すべて貫かれている視点です。

最後に、ひとつのフレーズ

取材中、井手口さんが何度も口にした言葉があります。

「みんながハッピーになる仕組みを作りたい」

素朴に聞こえるかもしれません。けれど、井手口さんがこの言葉に込めているのは、「弱者を救う」という一方向の善意ではなく、利用者も、支援者も、企業も、地域も、それぞれの立ち位置から少しずつ豊かになっていく――そういう全方位的な構想です。

ソーシャルワークのグローバル定義の中核に「人々のエンパワメントと解放を促進する」という一節があります。井手口さんが描いている風景は、この「人々」の範囲を、これまでの日本の福祉が想定してきたよりも、ずっと広くとろうとしているように見えます。

障がいのある人も、ない人も。福祉の現場にいる人も、いない人も。元気な人も、いまは元気でない人も。

みんなが、もう少しハッピーになる仕組みを、福祉の技術を使って設計し直したい――。

井手口誠さんの挑戦は、ソーシャルワーカーひとりの仕事の話ではない。日本社会が長らく見ないふりをしてきた空白を埋めに行く、もっと大きな試みである。

第4回、最終回へ続く

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リーダーを徹底支援。全体を俯瞰する「軍師」的なポジションで、采配を振るう。 https://chiehiro.com/mutousan/ Tue, 19 May 2026 14:05:24 +0000 https://chiehiro.com/?p=2255

来年4月、福岡大学を卒業し、社会人になる武藤遥香さん(21)。学級委員に立候補し、学生プロジェクトの取りまとめ役を担い、海外の貧困問題にも飛び込んできた彼女ですが、大学生に入り「リーダーになりたい」とは一度も思ったことが ... ]]>

来年4月、福岡大学を卒業し、社会人になる武藤遥香さん(21)。学級委員に立候補し、学生プロジェクトの取りまとめ役を担い、海外の貧困問題にも飛び込んできた彼女ですが、大学生に入り「リーダーになりたい」とは一度も思ったことがないそうです。

代わりに彼女が選んできたのは、優秀なリーダーの隣に立ち、その人の支えになれるような役割──「軍師」と呼ぶべきポジション。トップが脚光を浴びるこの時代に、彼女がそこを自覚的に選び取っているのは、なぜなのか。21歳の現在地から、その思考の根を辿りました。

■ できるまでやる。それが幼稚園からの気質でした。

「跳び箱、縄跳び、鉄棒、一輪車。なんでも泣きながら、もう、どうせできんしとか言いながら、できるまでやるみたいな子でした」と武藤さん。「幼稚園からそうだった」とのこと。やればできる。練習すればできる──そのシンプルな手応えが、原体験として積み上がっていきました。

「乗り越えられなかったこと、あんまりないんですよね」

努力が苦になりませんというより、できないまま放置することのほうが彼女には苦痛。この気質は、後年の活躍ぶりに、そのまま繋がっていきます。

■ 学級委員。「誰もが居心地のいいクラス」を。

中学では3年間、学級委員を務めました。「どんな子でも、少しでも居心地がいいクラスづくりをしていました」と振り返ります 。

新しい環境やクラスの輪に入ることに対して、少し遠慮がちになっている子や、周囲となじむのに時間がかかっている子 ──。武藤さんは自ら同じ班になり 、無理のない居心地の良い雰囲気を作っていきました 。まずは、自分が一番に仲良くなりに行く 。誰にも頼まれずに、それを自分の役割として自然に引き受けていました 。

「クラスが好きだったから、来てほしかったんです」。責任感、ではない。「やりたかったから、行動した」と。

もっとも、中学生時代がすべて順風満帆だったわけではありません。ある時期、学校が安心できる場所ではなくなった瞬間もありました。それでも彼女は、嫌な現実から目を背けるよりも、目の前にあるべき日常を回し続けることを選びました。これが、その後の彼女のすべての選択に通じる、最初のフォームだったかも知れません。

■ 1日10時間、苦にならない勉強。

高校は福岡で人気の学校。志望理由を聞くと、即答でした。「自由な雰囲気が好きだったんです」

受験期、平日10時間、休日12時間の勉強を「苦じゃなかった」と言い切ります。彼女が得意だったのが数学。

「いろんな解き方があるのに、答えが1個になるのが、面白くて」。答えがひとつに収束していく感覚。プロセスの異なる複数の道筋が、最後に一つの正解に着地する設計。武藤さんが惹かれていたのは、「組織を機能させる」という仕事の構造に、どこか似ている気がする。複数の人、複数の動き、複数の都合を、ひとつの目的に向けて束ねていく仕事──彼女が、後にのめり込んでいくのは、まさにそれだった。

■ 「私、夢を諦めてる人たちに届けたい」。1200人の前で歌った。

武藤さんには、もう一つ、意外な顔があります。「歌う人」です。始まりは、コロナ禍。高校の入学式が延期になった春、彼女はギターを手に取りました。教室の奥の端っこで、一人で歌の練習をしていました。

「先輩が聞いていて。あれ、武藤さん、歌もいけるくね?って言われて(笑)」

誘われるままにカラオケに行ったら、その場で誰よりも高得点を出した。文化祭のオーディションに通り、初めての本格的なステージで、1,200人の前で歌いました。

受験期にはSNSで弾き語りも。1〜2か月で5,000人にフォローされました。ライブには延べ4,000人が訪れたこともあります。

ここで彼女がやっていたのは、ただ歌うことだけではありませんでした。配信中、コメント欄に集まる悩み相談に、武藤さんはひたすら答え続けていたのです。受験のこと、進学のこと、恋愛のこと。

「私は夢を諦めてる人たちに届けたいって思って。それで歌っていたんです」

実は、小学生の時、教えるべき立場の教師から「音痴」と言われたという経験を持つ武藤さん。そこで、「歌うことを諦めた」という時期がありました。しかし、もう一度マイクを握ることができた。その経験が、誰かの「諦めかけている自分」に届くと信じ、歌っていたそうです。根底に流れている“利他の根”は、この頃すでに、はっきりと形造られています。

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■ 大学で出会った、企業と組んで社会課題を解く授業。

本命は国際協力でした。小学校の頃から、貧困、戦争、保護犬、障がいのある人──そういうテーマの本を、図書館で繰り返し借りていました。英語を使って、現地で誰かの助けになりたい。そして、福岡大学の経済学部へ。

「めっちゃ楽しいです」

彼女がそう言い切るのには、理由があります。入学早々、ある授業に出会いました。企業と学生がチームを組み、企業や社会の課題を一緒に解いていく実践型のカリキュラムです。武藤さんは、4年間にわたって、別々のチーム、別々の現場で、この授業に身を投じることになります。

1年目のプロジェクトは、不登校の子どもたちが通う場所をサポートするNPOでした。

論理的思考が突き抜けて高く、行動力抜群の同級生。武藤さんはその隣で、必要に応じた支援に全力で取り組みました。

「同級生が“これやりたい”って言ったら、私は“じゃあこれ準備しとくね”といった関係でした。今も一緒に活動してます」

この一年が、武藤さんが自分のポジションを見つけた一年だった。リーダーがやりたいと言ったことを、形にできるように動く。リーダーが見落としていることを、実践できるように。それが、自分が一番輝ける場所だと、彼女は気づいたそうです。2年目は、九州に地盤を構えるあるものづくり企業。

3年目はスケジュール管理、交通費管理、協賛金集めなど、事務局的なポジションに。組織が機能するために不可欠な役回りで、的確に“縁の下の力持ち”を担った。脚光を浴びるリーダー、組織を円滑に回す軍師役。後者がいなければ、リーダーの理想は届かない。誰に教わるでもなく、武藤さんは現場で磨きあげ、補佐としての能力を実装していったように感じます。

■ 海外へ。貧困と向き合う、3度のカンボジア。

授業の合間、彼女はもう一つ、別の現場にも飛び込んでいました。

海外。それも、貧困の現場です。大学在学中、武藤さんはカンボジアに3度渡っています。最初は2週間、二度目は短期で、そして三度目は1か月、ある民間プログラムに参加して、現地のスラム街に通い続けました。

聞き取りの内容は、想像を絶する。家がない家庭、一つ屋根の下に何十人もが暮らす家庭、子どもを18人産んだ女性、夫を3人亡くした女性。日本の常識を一度すべて手放さなければ、対話そのものが成立しない世界でした。

そのなかで、武藤さんは現地で実現可能なビジネスプランを、自分なりに練り上げていきます。彼女が目をつけたのは、石鹸でした。

「あっちでは、食器を洗うのも、体を洗うのも、洗濯も、全部同じ石鹸でやっていて。それで体がかゆいとか、夜中に痛いって人がいたんです」

ならば、現地の人が自分たちで作れる石鹸を、自分たちで作って売れる仕組みにする。設備投資もほとんどいらない。目の前の課題を、目の前の手段で解決する。地に足のついたプランでした。

■ 違和感を、飲み込まなかった。

数々の活動を経験するなかで、武藤さんは幾度か、違和感を覚える瞬間に出会っています。

学生だから。若いから。これも勉強だから。あなたたちのためになるから。──そう言われて、本来やるべきことから少しずつ逸れていく現場。説明されていなかった役割を、その場の空気で背負わされる現場。組織の在り方として、どうにも筋が通らないと感じる現場。

「それ違う」

21歳の彼女は、それを飲み込みませんでした。大人たちの言葉に言いくるめられそうになりながらも、仲間と一緒に、自分たちの考えをきちんと貫こうとしました。声を上げ、問い直し、ときには現場でぶつかったという。

そうした経験が、彼女の判断軸を鍛えていった。組織の善し悪しを、肩書や規模ではなく、実際にそこで何が起きているかで見る目。きれいな建前と、その裏側の構造を、両方とも見据える目。

■ 「困っている人がわかりやすかっただけだったかもしれない」。

3度目のカンボジアを終えて、彼女のなかで、新しい問いが立ち上がりました。

「私は社会課題解決をやりたいって、漠然と思っていたんです。でも、貧困問題から入ったのって、結局、困っている人がわかりやすかったからじゃないか、って」

ボロボロの服。痩せた体。目に見えて困っている人。それは、社会課題の入り口としてはたしかに分かりやすい。しかし、社会課題はそれだけではありません。もっと多様で、もっと多層で、もっと表に見えにくいものがいくらでもあります。

ならば、自分がすべての分野を一人で解決できるわけがない。

「今は、社会課題解決に関わりたいと思っている人を支えられるような人材になる、自分には一番目指す方向なんじゃないかと考えています」

貧困を解決する人ではなく、社会課題に向き合う人を、補佐する人。これが、3度の海外経験を通じて、武藤さんがたどり着いた結論です。

実際に、動き出しているプロジェクトもあります。ケニアへのスタディキャンプです。

企画も資金調達も、ほぼ0から自分たちで立ち上げる。参加者を募り、来年3月の渡航を目指しています。必要な経費などから逆算して、必要な売上を出す仕組みまで、自分たちで設計するという。

経営の知識を、現場で動かしながら学ぶ。彼女は、軍師役として磨かれてきた自分の刀を、いまも一本一本、増やしている最中です。

■ 「私の周りにいると、自己肯定感が上がるらしいんです」。

取材中、武藤さんはこんなことを口にして、笑いました。

「みんな前は低かったんだけど、はるかちゃんと出会ったら高くなっちゃったって言われるんですよ」

彼女自身が、なぜ自分の自己肯定感が高いのか、本人もよく分からないと言います。けれど、21歳の段階で、自分の特性を見極め、「圧倒的なリーダーの隣で、補佐役に徹したい」と覚悟を決めている──そのことと、無関係ではないように思います。

■軍師役として、トップの動きやすい環境を整える。

今の時代、リーダーシップの語られ方は、どうしても「前に出る人」に偏りがち。しかし、組織が本当に動くとき、その裏側には必ず、的確に組織を動かしている誰かがいます。リーダーの理想を、現実の手触りに落とし込んでいく誰かがいます。

その誰かに、21歳ですでに、自覚的になっている武藤さん。この先で、どんな組織を、どんな未来を動かしていくのか。その軌跡が、これからとても楽しみな取材になりました。

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【第2回】「AIは、脳の義足になる」――社会福祉士が現場に持ち込んだ、新しい武器 https://chiehiro.com/ideguchi2/ Tue, 12 May 2026 18:37:00 +0000 https://chiehiro.com/?p=2244

――武器としてのテクノロジーと経営 善意だけでは、人は救えない。 これは、福祉の現場に長く立ち会ってきた者であれば、誰もが一度は突き当たる壁である。優しさも、覚悟も、想いも、現場には溢れている。それでも人は疲弊し、辞めて ... ]]>

――武器としてのテクノロジーと経営

善意だけでは、人は救えない。

これは、福祉の現場に長く立ち会ってきた者であれば、誰もが一度は突き当たる壁である。優しさも、覚悟も、想いも、現場には溢れている。それでも人は疲弊し、辞めていく。利用者に向き合う時間より、書類を書いている時間のほうが長い。あればいい書類が、あればいい支援を生んでしまう。

福岡の就労継続支援B型事業所で生活相談員を務める社会福祉士・井手口誠さんは、この壁にテクノロジーと経営の言葉で挑もうとしている。AI、DX、ビジネスモデル――福祉の文脈ではどこか馴染みの薄いこれらの言葉が、井手口さんの口からは自然に飛び出してくる。

「AIは、思考の義足なんですよ」

井手口さんと話していて、もっとも印象に残ったフレーズのひとつがこれでした。

歩く力を失った人が、再び歩けるようになるための器具。井手口さんはAIをそう位置づけています。

「メンタルが落ちている時って、思考力も一緒に落ちるんです。情報を集めるのも、判断するのも、決めるのも、全部しんどくなる。そこをAIが助けてくれるんです」

ソーシャルワークには「意思決定支援」と呼ばれる技法があります。認知症の方や障害のある方が、自分の意思を表明し、選び、決めていくプロセス全体に伴走する支援です。意思決定とは、決断という一点ではなく、情報を取る・価値判断をする・選ぶ、という連続したプロセス――これが意思決定支援の前提です。

井手口さんの目から見ると、このプロセスのほぼ全段階で、AIは強力な伴走者になり得ると言います。

「最初のインプットさえちゃんとできれば、その後の整理や比較は、合理的に進むんですよ」

人と会うのがしんどい。そういう日でも、スマートフォン一台あればAIには相談できる。ハードルの低さも、井手口さんがAIを評価する理由のひとつです。

ときには「AIと3人で相談する」こともある。

たとえば相談業務の一環として、AIを実践的に使うケース。利用者と井手口さんが向かい合う。テーブルにはもう一つ、画面が置いてある。利用者は、自分の悩みや疑問を、井手口さんではなく、まずAIに投げかける。

「これってどうなんですか、ってAIに質問するんですよ。僕に質問するんじゃなくて」

AIが回答を返す。井手口さんはそれを横で聞きながら、専門家として判断します。「あ、これは合ってますね」「ここは少し違いますね」「これはAIの嘘だから、信じすぎないでください」――。

「彼らが安心してAIと対話できる環境を作るのが、僕の役割なんです。AIが言うことのうち、どれが正しくて、どれが嘘か――それを学べる場にしたい。だって、僕がいつまでも横にいるわけじゃないですから」

もちろん、毎回の相談業務に用いるわけではない。場合により、使い分ける。

人生は長い。井手口さんが利用者と関われるのは、その長い時間のごく一部にすぎない。だとすれば、自分が答えを与え続けるよりも、利用者自身が情報を取り、検討し、決めていく作法を身につけてもらったほうが、よほど価値がある――そういう設計を模索する。

「セルフカウンセリングのやり方を学んでもらう感じですね。それと、AIの答えに対する『当たり外れの勘』を磨いていく」

意思決定支援とAIの組み合わせについて、これほど具体的に語る現場の声はそう多くありません。バズワードとしての「福祉×AI」ではなく、地に足のついた技法として組み込まれたAIの姿が、ここにあります。

「あればいい書類」が現場を食い尽くす

意思決定支援におけるAIの活用と並んで、井手口さんが取り組んでいるのが、事業所内の業務DXです。

「福祉の現場って、本当に書類仕事が多すぎるんですよ。これ、いるのかな、っていうぐらい」

制度に基づいた支援を提供する事業所には、補助金を受け取るために提出すべき書類が大量に存在します。チェックリスト、支援記録、計画書、報告書――。本来は支援の質を担保するために設計された記録が、いつの間にか「あればいい書類」に変質していく、と井手口さんは言います。

「あればいい書類が、どんどん増えていくんですよ。利用者さんと向き合う時間がどんどん削られて、記録を書くために働いているような状態になる」

補助金は書類で支払われます。書類さえ揃っていれば、支援の中身が薄くても事業所は回る。逆に、書類が揃わなければ、いくら支援が手厚くても評価されない。この構造そのものが、現場を「あればいい書類」へと押し流していきます。

井手口さんが事業所のDX推進担当として手を入れているのは、まさにこの部分です。

「あればいい書類は、本当に『あればいい』ものとして自動化してしまう。そうじゃないもの――利用者さんと向き合う中で得た一次情報を、ちゃんと記録として残せる仕組みに変えていきたいんです」

音声入力、AIによる要約、定型書類の自動生成。要素ごとに見ればどれもありふれた技術ですが、それらを福祉の業務フローに合わせて統合していくと、書類業務の時間は劇的に圧縮されると言います。

「事務作業に当てている時間が、3分の1から4分の1にはなる。たぶん、もっと減らせます」

時間が生まれる。そこで初めて、現場には「学ぶ余裕」が生まれます。後輩に教える時間が生まれる。新しい技法を試す余裕が生まれる。利用者と、もう一杯お茶を飲む時間が生まれる。井手口さんがDXに取り組む理由は、効率化そのものではなく、その先に作りたい「余白」のためです。

ソーシャルアクションは、技法のひとつである

ここで井手口さんは、ソーシャルワークの「グローバル定義」に書かれた、もうひとつの言葉を持ち出します。社会変革――。

「ソーシャルワークの中に、ソーシャルアクションっていう技法があるんですよ。社会を変える、ということ自体が、ちゃんと支援の技法のひとつとして定義されているんです」

社会を変えることが、福祉の本業に含まれる。これは、日本のソーシャルワーカーの多くが意識せずに働いている領域だ、と井手口さんは指摘します。現場で目の前の利用者を支援する。それは大切な仕事ですが、それだけがソーシャルワークではない。制度が歪んでいるのなら制度を変えに行く、社会の認識が歪んでいるなら認識を変えに行く――これもまた、ソーシャルワークの一部だというのです。

「個人を支援していると、どうしても組織の中のことしか見えなくなるんですよ。書類を書くことに精一杯で、社会のことなんて考える余裕もない。でも本当は、その状態こそが社会変革の対象なんです」

ソーシャルアクションを発動するには、現場に余裕がいる。余裕を作るにはDXがいる。ここで井手口さんの取り組みは、ぐるりと一周してつながります。

DXは目的ではない。社会変革を発動するための、必要条件にすぎない。井手口さんは何度もこう言います。

「DXが必要十分条件だとは思っていません。必要条件です。これがないと、何も入らない。学びも、議論も、社会変革も、全部入らないんです」

「補助金に頼るビジネスは、もう終わりにしたい」

井手口さんがもうひとつ強く語るのが、福祉のビジネスモデルそのものへの問題意識です。

「補助金に頼るビジネスは、もう終わりにしたいんですよ」

これは、補助金そのものへの否定ではありません。補助金で立ち上げ、補助金で回し続け、補助金が来なくなったら立ち行かなくなる――そういう構造への違和感です。

「最初の立ち上げに補助金が入るのは、別にいい。問題は、その後10年計画を立てる時に、ずっと補助金ありきの計画しか描けないこと。それじゃ絶対、10年後に失敗してしまう」

補助金は、福祉の対象を「弱者」に固定します。補助金の名目はだいたい「困っている人を助けるため」と書かれているからです。すると、福祉の事業は構造的に「弱者ビジネス」になる。

井手口さんの提案は、ここから先です。

「ソーシャルワークの技術って、本来はもっと広く使えるんですよ。障害のある方や高齢の方だけじゃなくて、健常者と呼ばれる人たちにとっても、自分の人生をよりよく生きるための技術として有用なんです」

意思決定支援、対話のファシリテーション、人と環境の相互作用を読み解くアセスメント、エンパワメントを促す関わり方――。これらは、誰にとっても、人生のどこかで役立つ技術です。

「だから、ちゃんと売り物にして、対価を得て提供できるサービスにしたい。それが本当のゴールだと思っています」

ソーシャルワークを、福祉の技術を、「誰もが使えるサービス」にアップデートする。井手口さんの構想は、福祉業界の内輪話に閉じない、もっと大きな射程を持っています。

善意を、システムに変える

善意だけでは、人は救えない。

だからといって、善意を否定するわけではありません。井手口さんが現場で出会ってきた福祉職の人たちは、本当に優しくて、本当に真面目な人ばかりだったと言います。問題は、その優しさが、消費されてしまっていることです。

「優しさは、システムにしないとダメなんですよ」

ベテランのソーシャルワーカーが20年かけて積み上げた支援の知恵が、退職と同時に消えていく。優秀な相談員が一人で抱え込んだノウハウが、組織に共有されないまま埋もれていく。これらはすべて、善意がシステム化されていないがゆえに起きる損失です。

AIによる業務自動化は、書類仕事を減らすためだけの取り組みではありません。言語化されないまま消えていく現場の知を、データとして残し、共有し、次の世代に渡していくための、長い射程を持った仕事です。

「実践の暗黙知を、組織の共有財産にしたいんですよ。AIを使えば、それができるんです」

井手口さんが思い描いているのは、福祉現場の単なる効率化ではありません。優しさを、属人的な才能から、誰もが使えるインフラへとアップデートする――そういう仕事です。

テクノロジーは、「人間臭さ」のためにある

ここまで読むと、井手口さんがテクノロジー礼賛の人物に見えるかもしれません。けれど、井手口さんの主張はその逆です。

「AIにできないことを、人間がやればいいんですよ。書類なんて、AIのほうが絶対上手なんだから、もう全部任せてしまえばいい。その代わり、利用者さんと向き合う中で生まれた、一次情報の関わり方――そこは人間にしかできない」

ある医療現場で、視野検査をメタバース機器で代替する試みがあったといいます。それまで対面で何十分もかけていた検査が、機器を装着すれば数分で終わる。検査時間は短縮された。では、その分余った時間は何に使われたのか。

「患者さんに向き合う時間が、増えたらしいんですよ」

これだ、と井手口さんは言います。テクノロジーは、人間から仕事を奪うのではなく、人間が本来やるべき仕事に戻すための装置である。井手口さんが事業所のDXを進める動機は、ずっとこの一点に向いています。

「現場は、本当に一生懸命やっているんです。疲弊するほど真面目に。だからこそ、その時間と労力を、もっと意味のあるところに使えるようにしたい。AIに任せられるものは任せて、人間にしかできないことに、もっと時間を使ってほしいんです」

つながる、第3回へ

AIで時間を作り、ビジネスとして回るソーシャルワークを設計する。井手口さんの構想は、現場の業務改善から始まり、業界の構造改革にまで射程を伸ばしています。

そして井手口さんは、もう一歩先にも踏み込もうとしている。「障害のある人は、組織にとっての触媒になり得る」という、新しい役割概念です。これは障害者雇用を「コスト」と「美談」の二項対立から救出し、組織のあり方そのものを変える発想です。

第3回では、井手口さんがインタビューの最終盤で語った「触媒(カタリスト)」という構想と、若い世代を巻き込んだ未来への動きを掘り下げます。

(第3回に続く)

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【第1回】「まちづくりは、福祉と地続き」――社会福祉士でまちづくりのプロ・井手口誠さんが、20年越しに辿り着いた答えとは。 https://chiehiro.com/ideguchi1/ Thu, 07 May 2026 17:12:00 +0000 https://chiehiro.com/?p=2231

──消費される福祉を、書き換える 「福祉」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。 生活保護、介護施設、障がい者支援。多くの人にとって福祉とは、何かにつまずいた誰かのために用意されたセーフティネットである。元気に働き、自分の ... ]]>

──消費される福祉を、書き換える

「福祉」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。

生活保護、介護施設、障がい者支援。多くの人にとって福祉とは、何かにつまずいた誰かのために用意されたセーフティネットである。元気に働き、自分の足で立っている自分には、いまのところ縁のない世界。そう感じている人は少なくないはずだ。

ところが、世界のソーシャルワーカーが共有している「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」を読むと、その常識がまるごとひっくり返る。

「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である」

弱った人を助ける仕事、とは書いていない。社会を変え、人々の結びつきを育て、人を解き放つ営み──そうグローバル定義は宣言している。

福岡で社会福祉士として働く井手口誠さんは、この定義に出会ったとき、自分がそれまで20年近く続けてきた市民活動・まちづくりの仕事が、すべて福祉だったのだと気づいたという。

井手口さんは現在、就労継続支援B型事業所の生活相談員として障がいのある方の働く現場に立ちながら、社内のDX推進担当も兼ねている。工学部電気工学科を卒業し、市民活動の世界からキャリアを始めた人物が、なぜ福祉に行き着き、いま「消費される福祉を書き換えたい」と語るのか。その軌跡をたどると、日本社会が長らく見ないふりをしてきた、いくつかの空白が浮かび上がってくる。

市民活動の現場に、なぜ障がいのある人はいなかったのか

井手口さんが市民活動の世界に飛び込んだのは、2000年代初頭、まだ大学生のころでした。

「ちょうどNPO法人制度ができたばかりの時期で、福岡市にも市民活動を支援するセンターが立ち上がったところでした。学生時代から、ボランティアやまちづくりの世界にどっぷりでしたね」

阪神・淡路大震災を契機に、ボランティアという行為を仕組み化しようという機運が高まり、1998年に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行されます。井手口さんが学生として活動の輪に加わったのは、その制度がようやく社会に根付き始めた頃でした。

ゴミ拾い、ホームレス支援、環境問題、子ども支援。学生らしい多分野のボランティアを経て、卒業後は市民活動支援センターの職員となり、福岡県内・佐賀・熊本など各地で住民参加のまちづくりや、自治協議会の地域計画策定支援に携わります。ワークショップを設計し、対話の場をファシリテートし、地域の課題解決を住民とともに進める──そういう仕事を、井手口さんは長年こなしてきました。

ところが、当時の自分を振り返ると、あるひとつの空白に気づくと言います。

「ワークショップにも対話の場にも、いろんな人が来てくれていました。でもいま思い返すと、そこに障がいのある方はいなかったんです。認知症の方も、いなかった」

参加できる人だけが参加していた。来られる人だけが「住民」だった。元気に動ける人たちのための場でしか、自分は動いてこなかった──そのことに、井手口さんは長らく気づいていませんでした。

「市民活動の現場で『社会の課題を解決しよう』と言っているのに、福祉の世界とはなぜか出会っていなかったんです。20代の自分には、まだそれが見えていませんでした」

市民活動とまちづくり。その世界で語られる「社会」と、福祉が向き合っている「社会」のあいだには、目に見えない断絶がありました。

2015年、まちづくりと福祉が「繋がった」

転機は2015年に訪れます。

この年、介護保険制度が大きく改正されました。膨らみ続ける介護給付費を持続可能にするため、要介護状態になる手前──いわゆる「予防」の段階に力点を移す方針が打ち出されたのです。各地域の包括支援センターには「生活支援コーディネーター」と呼ばれる役職が新設され、地域の元気な高齢者に居場所と役割を作り、住民同士の支え合いを組織化していくミッションが与えられました。

そして、生活支援コーディネーターたちに「住民参加のまちづくり」を教える研修講師として、井手口さんに白羽の矢が立ちます。

「そこで初めて、ああ、まちづくりと福祉ってつながるんだ、と気づいたんです。10年前のことですから、意外と最近の話です」

20年近くやってきた市民活動の仕事が、実は全部、福祉と呼ばれるべきものだった。子どもの支援も、災害支援ボランティアも、地域コミュニティの再生も、すべてグローバル定義に書かれた「社会的結束」と「社会開発」の実践だった。井手口さんはそこで初めて、自分が立っている地面の正体を知ります。

ただし、繋がったことを喜んでばかりはいられませんでした。研修の場で目にしたのは、制度設計の深刻な歪みだったからです。

「生活支援コーディネーターになる方々は、昨日まで病院でリハビリの仕事をしていた、というような方も少なくありません。それがある日、地域に出て住民の居場所を作ってくださいと言われる。研修では『まちづくりってこういうものですよ』と教えるんですが、現場に持続可能な仕組みを作るためのお金は、ついていない」

予算は生活支援コーディネーター1人分の人件費だけ。地域住民の活動を持続させる事業費はゼロ。マネジメントの専門家もいない。「制度疲弊を起こしているくらいの状態です。10年経った今も、ですよ」と井手口さんは言います。

まちづくりと福祉が制度上つながった、その瞬間に──現場では、つながりを支える土台が抜け落ちていた。井手口さんが「消費される福祉」と呼ぶ風景は、このあたりから輪郭を持ち始めます。

「俺、人権って考えたことなかった」

井手口さんが社会福祉士の資格取得を本気で目指したのは、ある依頼がきっかけでした。

生活支援コーディネーターのひとりに社会福祉士の方がいて、井手口さんに「まちづくりの話を、ぜひ社会福祉士に向けて話してほしい」と打診されたのです。話す相手のことを知ろうと、軽い気持ちで社会福祉の勉強を始めた井手口さんは、そこで思いがけないものに出会います。

「勉強し始めたら、これ、今までやってきたことそのものだなと。学生時代の子どもボランティアも、災害支援も、コミュニティ支援も、ぜんぶ福祉だった。あらためてソーシャルワークというキーワードに出会って、自分の足元の理論がここにあったんだ、と腹落ちしました」

ところが、勉強を進めるうちに、もうひとつの発見が井手口さんを揺さぶります。

「社会福祉士の勉強を始めて、最初に思ったのが──俺、人権って考えたことなかったな、ということだったんです」

人が人として持っている権利。それを侵されないために、社会はどう振る舞うべきか。グローバル定義の中核には「社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理」が据えられています。ソーシャルワークはこの原理の上に立つ、と明言されている。

井手口さんは長年、地域の対話の場を作り、住民の声を引き出すファシリテーションを生業にしてきた人物です。それでも、人権という概念を真正面から考えたことがなかった。これは井手口さん個人の怠慢ではなく、日本社会が共有している空白だと、井手口さんは言います。

「日本人って、人権をインストールされていないんですよ。学校で教わるのは、せいぜい受験対策としての倫理くらい。家庭に丸投げされているのが実態じゃないでしょうか」

たとえば義務教育を例に取ると、子どもには「学ぶ権利」がある一方、子どもに「学ばせる義務」があるのは親の側です。けれど多くの人は、子どもに学ぶ義務がある、というふうにぼんやり理解している。義務と権利の主語が誰にあるのか、丁寧に整理されないまま大人になっていく。

「労働基準法を知らずに働くのって、交通ルールを知らずに車を運転するのと一緒なんですよ。でも、そう言われて初めてピンと来る人がほとんどです」

シングルマザーへの社会的視線、障がいのある方の雇用、共同親権をめぐる議論──井手口さんが現場で目にする数々の論点は、突き詰めればすべて「人権」という空白に行き着くと言います。

「『大変だね』では止まらないんですよ。人の権利を守るとはどういうことかを、ニュートラルな立ち位置から考えられる人がもっと増えないと、議論がいつまでも感情論で終わってしまう」

学問の半分が、抜け落ちている

人権の発見と並んで、井手口さんがソーシャルワークの勉強を進めるなかで気づいたもうひとつの空白があります。それは、グローバル定義の末尾にさりげなく置かれた一語に関わる発見でした。

「ソーシャルワークは……実践に基づいた専門職であり学問である」

専門職であり、学問である。日本では、この後半が決定的に軽視されている、と井手口さんは指摘します。

「現場の福祉職の方々は、本当に優しくて真面目な方ばかりです。資格も持っていて、毎日たくさんの実践を積んでいる。けれど、自分たちがやっていることを言語化する訓練を、ほとんど受けてきていないんです」

支援記録は「あればいい書類」になっていく。「なぜ、この方にはこういう支援を選んだのですか」と尋ねても、「いや、なんとなくそう思ったから」で終わってしまう。井手口さんが現場で何度も目にしてきた光景です。

「実践はこれだけ積み上がっているのに、それが体系として残らない。理論として共有されない。ソーシャルワークは『実践と学問の両輪』だと定義されているのに、片輪走行になっているんですよ」

実践だけでは、技法は次の世代に受け継がれません。研修も、後進育成も、根拠ある支援も、すべて言語化された土台の上に成り立ちます。一方の日本では、ベテランのソーシャルワーカーが積み上げてきた支援の知恵が、退職とともにふっと消えていく。「もったいないんですよ。本当に」と井手口さんは繰り返します。

「資格を持っているのに、その資格のための資格になっている。記録が支援に活きていない。だから、せっかくの実践が組織にも社会にも還元されない」

この問題意識は、後の回で詳しく触れる「AIによる言語化支援」「ソーシャルワーク実践のデータベース化」といった構想に直結していきます。井手口さんが事業所内のDX推進にこだわる理由も、ここにあります。書類業務を圧縮するためだけではなく、言語化されないまま消えていく現場の知を、学問の側に引き上げるためです。

「消費される福祉」を書き換える

まちづくりは福祉だった。人権を考えたことがなかった。学問の半分が抜け落ちている。

井手口さんがソーシャルワークの勉強と現場の往復のなかで突き当たった、3つの空白です。それぞれは別々の発見のように見えて、実はひとつの問いに収束していくと、井手口さんは言います。

「日本では、福祉は『やばくなったら使うもの』だと思われているんですよ。生活保護とか、介護施設とか。確かにそれも福祉です。けれど、それが福祉の全部ではない」

グローバル定義に立ち戻れば、ソーシャルワークの対象は、パワーレスになった人だけではありません。社会変革、社会開発、社会的結束、エンパワメントと解放──これらは、社会のあらゆる領域に開かれた営みです。元気な人がもっと元気になるためにも、福祉の技術は本来、使えるはずだと井手口さんは言います。

「まちづくりだって福祉なんです。人のウェルビーイングを追求するすべての営みは、本来、ソーシャルワークの射程に入っています。それなのに日本では、福祉は『弱者支援』に矮小化されて、補助金で回すビジネスになってしまっている」

井手口さんが「消費される福祉」と呼ぶのは、この矮小化のことです。世界標準の定義に書かれている広大な射程を、日本社会は半分も使えていない。福祉職自身も、その射程を意識して働けていない。結果として、現場は疲弊し、想いだけで人を救おうとして空回りする。

「消費される福祉を、書き換えたいんですよ。福祉の技術はもっと広く社会に届くはずだし、届かせるべきだと思っています」

その「書き換え」を、井手口さんは思想として語るだけでなく、具体的な手段とともに動き始めています。AIとDXによる現場の解放、ビジネスとして回るソーシャルワークの実装、そして「触媒(カタリスト)」という新しい組織観──。

連載第2回では、想いだけでは人を救えない現実に対して、井手口さんがテクノロジーと経営の言葉でどう挑もうとしているかを掘り下げます。

(第2回に続く)

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原体験を「希望」に変える。児童養護施設出身の24歳、中尾優太さんが「フェアにチャレンジできる日本」を目指し、政治家を志す理由。【後編】 https://chiehiro.com/nakao2/ Sat, 18 Apr 2026 13:59:42 +0000 https://chiehiro.com/?p=2211

 【前編】では、温かい地域社会や恩師、祖母との出会いを通じて「自らの可能性」を切り拓き、政治家への使命感を芽生えさせるまでの軌跡を追った。【後編】では、その「萌芽」が揺るぎない「信念」へと変わり、政治家を目指す ... ]]>

 【前編】では、温かい地域社会や恩師、祖母との出会いを通じて「自らの可能性」を切り拓き、政治家への使命感を芽生えさせるまでの軌跡を追った。【後編】では、その「萌芽」が揺るぎない「信念」へと変わり、政治家を目指す若き獅子の挑戦の全貌を聞いた。

大学3年生で、自らの使命として「政治家の道」を選ぶ。「30年後、日本はあるか」。

祖母の支援を受け、中尾さんは九州国際大学の経済学部に進学。大学でも生徒会長を務めた。そして大学3年生になり、人生最大の意思決定を行う。続けてきたサッカー審判の道と、政治の道。どちらを選択するのか——そのときに、閃光のように脳裏をよぎったのが、高校3年生の研修で気づいた、あの使命感だった。「サッカーの審判は、他の人でもできる。しかし、自分と同じ境遇を経験した人間が政治の世界に入ることには意味がある。私が経験してきたからこそ、絶対にやらなければならない、自分にしかできない仕事だ」という気持ちが固まった。

さらに、日本社会の未来にも目が向いた。「そもそもこれからの30年、サッカーの審判をずっと続けられるだけの日本を、保ち続けられるのか。…と自分に問うたとき、明確にイエスとは言えなかったんです」。人口減少、地域コミュニティの崩壊、若い世代の閉塞感。これまでの肌で感じてきた経験や課題は、30年後には確実に深刻化している。「当事者として生きてきた自分だからこそ、やれることがある」「日本の未来を、自分の手で変えに行く」その信念が宿った瞬間、もう迷いはなかった。

大学3年生の終わり頃、政治の現場を知るため、地域に根ざす地方議員の秘書を務めた。大学を1年休学して選挙戦に帯同。結果は、敗北だった。しかし、この1年半で学んだものは大きかったという。応援してくれる人の貴重さ、地元の声をどう汲み取るか、そして“選挙という戦いの大変さ”を肌で感じた。

「フェアなチャンス」が、すべての原点。

中尾さんのビジョンとして、「まずは地方議員」を目指すという。なぜ、いきなり国政ではなく地方議会なのか。そこには、明確なロジックがある。「基礎自治体を経験していない政治家が、国政で子どもや若者の政策を語っても、絵空事になる。国がフレームをつくっても、実際に政策を動かすのは地方の人たちです。だからまずは地方議員で現場を知ってから、国政を目指したい」と。仮に地方議員を2期務めても、まだ33歳だ。若さを武器に、自らの足で現場を踏み固めながら、“自分にしかできない政治”の実現へと向かっていく。彼が掲げるビジョンは、取材中ずっと一貫していた。「生まれ育ちに関わらず、公平にチャンスを得られる社会。これをつくることが、僕の人生の仕事です」

機会の公平さ、経済的なサポート、施設を出たあとの保証人や住居の問題。若者が自分の人生の選択肢をちゃんと持てる社会——それは、中尾さん自身が「あったらよかった」と心の底から願ってきたものに他ならない。「子どもや若者が、自分の未来に希望を持てない社会は、続かないんです。モノが満たされた時代には、次に求められるのは『精神の豊かさ』だと思っています。日本はおそらく、世界のどこよりも早くその段階に入ります。だから、新しい社会のかたちを、僕たちの世代から提案していかなければなりません」 と、言葉に熱を込めた。

「地域社会の復活」。久山町で学んだことを、日本中に。

『精神の豊かさ』という抽象的なビジョンを、どう具体化するのか。中尾さんの答えは、意外なほど足元にある。「まず取り組まなければならないのは、地域社会の復活です」。幼少期の発達心理に関わる「愛着形成」。3〜4歳の時期に特定の大人との関係性のなかで築かれるこの心理的土台が、共働きが一般化した現代では、十分に形成されにくくなっているのだという。「昔の日本では、共働きでも地域社会が子どもを見てくれていました。駄菓子屋のおばあちゃんや、八百屋のおじさん、商店街の人たち。保護者以外にも、子どもたちを見てくれる大人がたくさんいた。いまは隣に誰が住んでいるかも分からない。子どもたちは、いったい誰に見守られているんでしょうか」

これは、中尾さんが久山町で肌身で感じたことそのものだ。挨拶してくれる大人たち、さつまいもなどを差し入れてくれた地域の人々、どこの児童でも「隣の子」として受け入れる町の空気。それは、子どもたちを守る「もう一つのセーフティネット」として機能していた。「たとえば、公民館で多世代が集まれる場をつくるのもいいでしょう。他愛もない話でいいので、顔を合わせる機会をつくる。そういうコミュニティをしっかり復活させることで、お金を配るだけでは担保できない『人が人を見守る社会』を取り戻せるはずなんです」。それは郷愁でも懐古でもない。中尾さんにとって、確かな実感に裏打ちされた、未来への処方箋なのだ。

中尾さんが思い描く「豊かさ」の基準とは?

それは驚くほどささやかで、限りなく優しい。「僕個人の幸せは、テーブルにおかずが沢山並んだ時なんです。家や施設にいた頃、白ごはんはあっても、おかずが少なかったから。だから僕の幸せはそれくらいでいい。その分、他の人が私以上に幸せになる為に活動したいんです」。そんな理念こそが、中尾さんを突き動かす原動力なのだろう。

星を見上げた少年は、いま、街頭に立つ。

取材の最後、彼に問いを向けた——同じような境遇で育った事をネガティブに捉える方も多い、なぜこんなにもポジティブに語れるのですか、と。「運がよかったんだと思います。久山町の人たちに育ててもらって、恩師に可能性を見出してもらって、祖母が現れてくれて、兄が見守ってくれていて。こうして自分のストーリーを話せるのは、周りの人に恵まれたおかげです」。

「運」と「ご縁」。中尾さんは、この二つの言葉を取材中に何度も使った。それは受け身の言葉ではない。運を呼び込むだけの行動を積み重ね、ご縁を活かすだけの誠実さを貫いてきたからこそ、そう語れるのだと、話を聞きながら感じずにはいられなかった。生まれ育ちは、選べない。でも、チャンスだけは、公平であっていい——。

それには、既得権益に凝り固まったやり方では変わらないのではないだろうか?そう水を向けると、「良いものは残し、時代に合わないものは自分たちの手で変革する」と。そのまっすぐな眼差しに宿っていたのは、若き獅子の反骨の炎だった。そこに、“アナーキーな保守”を感じた。

この国のどこかで、いまもかつての中尾少年と同じように夜空を見上げている子どもがいるかもしれない。その子が、いつか自分の夢をちゃんと描けるように。星に向かって叫んだ夜の不安が、未来への希望に変わるように。中尾優太さんの挑戦は、ここから始まる。

【前編】はこちら。

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原体験を「希望」に変える。児童養護施設出身の24歳、中尾優太さんが「フェアにチャレンジできる日本」を目指し、政治家を志す理由。【前編】 https://chiehiro.com/nakao1/ Sat, 18 Apr 2026 13:42:58 +0000 https://chiehiro.com/?p=2193

12歳から18歳までを、児童養護施設で暮らした中尾優太さん(24)。現在、政治家への志を胸に抱き、着実に自らの道を開拓されている最中です。児童養護施設での経験を「地域に育ててもらった時間」と語る中尾さんの原体験や、想いな ... ]]>

12歳から18歳までを、児童養護施設で暮らした中尾優太さん(24)。現在、政治家への志を胸に抱き、着実に自らの道を開拓されている最中です。児童養護施設での経験を「地域に育ててもらった時間」と語る中尾さんの原体験や、想いなどを伺いました。

転々と流れた幼少期。その景色のなかに、母がいた。

中尾さんは2001年、福岡市に生まれた。物心がついた頃から引っ越しが多く、それが「友達を作るのが得意」という強みの礎となる。姉は幼い頃の医療ミスで重い障害を負い、兄も急逝している。その後、小学2年生で福岡へ。しかし、ある日を境に中尾さんは学校に行けなくなってしまう。母が、小さなすり傷を見て「いじめられている」と思い込み、登校を禁じてしまったのだ。

自らの意思による不登校ではなく、母を刺激しないための自宅待機。家のなかで、幼い中尾さんはやり場のない不安を一人で抱えるようになる。「小学4年生くらいから、漠然と『自分の人生、どうなるんだろう』と考えていました。普通の子どもなら、遊びたい盛りです。でも僕は、哲学みたいなことばかり考えていた気がします」と、当時を振り返る中尾さん。「母はシングルで、必死に育ててくれました。大変なことだらけだったはずなのに、あのとき僕を守ってくれたのは間違いなく母です」と、母への揺るぎない気持ちをにじませる。その気持ちは、昔も今も変わらない。

小学生の卒業間近に、運命が動。久山町が、僕を育ててくれた。

12歳の頃に事情が重なり、中尾さんは母と離れて暮らすことに。一時保護を経て向かった先は、福岡県糟屋郡久山町の児童養護施設「若葉荘」。人口およそ9,000人、山々に囲まれたのどかな町だ。「最初は山ばかりで怖かったんですが、住んでみたら、こんなに過ごしやすい場所はなかった」。12歳から18歳までの6年間のことを、「僕は、久山町に育ててもらった」——と。

町の人たちは、道ですれ違えば必ず挨拶をしてくれた。高校に入り、町の外に通学するようになって、初めて気づく。外の世界では、“挨拶は必ずしも返ってくるもの”ではなかったのだ。「自分が当たり前だと思っていたものが、実はそうじゃない。挨拶一つでも、町ぐるみで育てる文化が久山町にはあった。すごく、温かかったんです」。若葉荘は長い歴史を持ち、町民にとって「施設の子」は隣人だった。中尾さんが「保守」を自らの政治信条に据えるとき、その土台にあるのは「町で肌で感じた、地域社会の手触りそのものだ」と思う。

がむしゃらの努力で、半年で周りと同じ学力に。恩師がくれた「可能性」。

苦悩もあった。長年の不登校から、「学力が周りより、圧倒的に遅れている」ことに気付かされたのだ。小学校6年生で、2桁の割り算がやっとだった。しかし、そこで一人の教師と出会う。中尾さんの潜在能力を見抜き、「君なら必ず、半年で取り戻せる」と背中を押してくれたのだ。「過去の遅れではなく、私の『可能性』を真っ直ぐに信じてくれたことが、本当に嬉しかった」と当時の心境を明かす。とはいえ、半年で3年分の学力を取り戻す苦労や努力は尋常ではなかった。夏休みも冬休みも学校で自主学習し、宿題は「人の3倍も4倍も出してください」と自分から頼んだ。そして半年後、周りと同じ学力へと追いつく。「機会さえあれば、人は変われる」——のちに彼が掲げる「フェアなチャンス」という言葉の、最初の芽が、この半年間にあった。

── 「自分の色を、自分で決める」。

児童養護施設では、7~8人で一つのユニットを組んで暮らした。そこで中尾さんが直面したのは、集団生活ならではの処世術だった。「職員さんに上手に甘えられる子が、有利な側面がありました。同期の子たちは賢かったり、愛されキャラだったりしたのですが、僕は甘え方がわからず、最初は戸惑いもありました」。そこで、『自分の色を付けること』を模索する。選んだのは、学校生活や課外活動で輝く道だった。生徒会やサッカーなどで活躍。高校では生徒会長も務めた。

ただ、どうしても越えられない壁もあった。部活のチームメイトは、みな豪華な弁当を持ち、ほぼ全員が小学校からクラブチームに通っていた。もっと金銭的に恵まれていたら、早くから始めていたらと、機会の不平等を感じることもあった。しかし同時に、したたかに向き合う術も身に付けていく。高校で金銭的な壁にぶつかり部活を諦めた際、「審判としてワールドカップを目指す」という現実路線に舵を切り、たくましく活路を見出してみせたのだ。

── 高校3年生の半年、暗闇を彷徨ったそして祖母という、光に出会う

高校3年生。誰もが進路を決める季節。大学進学を強く望んでいたが、経済的な理由から、一度は諦めかけたという。公務員試験の勉強を重ね、自衛隊の試験に合格もした。それでも、“学びたい”という気持ちは消えない。ちょうどその頃、母の体調が思わしくなかった。身元の引受人をどうするか——現実的な問題に直面した中尾さんが、一縷の望みを託したのが、10年以上会っていない父方の祖母のことだった。児童相談所を通じて連絡を取ってもらった。実はずっと気にかけてきたが、さまざまな事情で直接接点を持つことができない状況だったのだ。「『老後のために貯めていたお金だけど、大学に行きたいなら、チャンスに使いなさい』と言ってくれたんです。あのとき祖母が現れなかったら、今の僕はいません」。

祖母と再会できたのは8月。進学の見通しが立ったのは、秋も深まる頃だった。その間、中尾さんは児童養護施設から帰る夜道、真っ暗な空を見上げて、急逝した兄に語りかけていたという。街灯もまばらな久山町の空には、いつもひときわ輝く星があった。「それが兄だと思っていました。兄の分まで、自分は2倍楽しんで生きなきゃいけない」。星に向かって、悔しさも不満も、声に出して話しかけた。真っ暗な夜道は、兄と自分だけの対話の空間だった。「僕は“運が良い”という確信があるんです。それはきっと、兄が一緒にいるからです」と中尾さんは、笑顔を見せる。

「政治家」という仕事がある──高校生で迎えた、一つの萌芽。

政治家という職業を意識し始めたのは、高校1年生のとき。ただこのときは「いつか国際審判員を引退したあとのセカンドキャリアとして」という漠然とした夢だった。政治家への距離感が一気に縮まったのは、高校3年生のときだった。中尾さんは、ある研修プログラムに参加する。ビヨンドトゥモロージャパン——「逆境は優れたリーダーをつくる」という理念のもと、困難な境遇の若者にリーダーシップ開発の機会を提供する。集まったのは、全国の同世代の若者たち。一人ずつ、40〜50分かけて自分の生い立ちを語る。最終日のプレゼンのテーマは「自立」。審査員には、国の大臣経験者ら錚々たる顔ぶれが並んだ。中尾さんのチームは、最終的に優勝した。しかし心に深く刻まれたのは、優勝の事実ではなかった。

「すごく優秀で、頭もよくて、本来ならいろんな可能性がある子たちが、『でも私、お母さんがいるから離れられなくて』と本音をこぼすのを、何人も聞いたんです。傍から見たら離れたほうが絶対に幸せになれるのに、家族だから離れられない。この深い対話のなかで、夢を少しずつ諦めていく同世代のリアルな葛藤を目の当たりにしました」。これまでも、同じ光景を見てきた。やりたいことを手放していった友人たちの顔が、脳裏によみがえる。「子どもは、誰かが手を差し伸べてくれないと、自力では抜け出せないんです」。このときの強烈な光景が、のちに人生を決定づける原体験として心に刻まれた。

【後編に続く】

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高校生が一番活動しやすいまち・唐津へ。“場所・機会・つながり”で、主体性を育てる高校生支援NPOの挑戦。 https://chiehiro.com/karatsu-npo/ Mon, 30 Mar 2026 13:31:48 +0000 https://chiehiro.com/?p=2164

大学・就職で一度地元を離れたあと、唐津に戻り、地域課題の解決に取り組んできた元唐津市議会議員の原さん。現在は、高校生の「居場所」と「挑戦の場」をつくる『NPO法人WeD』の事務局長として、子どもたちの主体性を育む活動に力 ... ]]>

大学・就職で一度地元を離れたあと、唐津に戻り、地域課題の解決に取り組んできた元唐津市議会議員の原さん。現在は、高校生の「居場所」と「挑戦の場」をつくる『NPO法人WeD』の事務局長として、子どもたちの主体性を育む活動に力を注いでいます。

「日本一、高校生が活動しやすいまち・唐津にしたい」と語る原さんに、立ち上げの背景や、高校生たちの成長エピソード、地域との関わり方、そしてこれから描くビジョンについて伺いました。

「場所・機会・つながり」を提供し、主体性を育てる。すべては小さなコミュニティから。

──まず、高校生支援のNPOを立ち上げた経緯と、ミッションを教えてください。

もともとは、僕自身が地元でイベントをしたり、仲間と一緒にまちづくりをしたりする中で、「この活動は、10年20年経ったら自分たちだけでは続けられないよね」と強く感じたことがきっかけでした。となると、次の世代を育てないといけない。そのときに「10歳下」ではもう遅いなと思ったんです。20歳、30歳下となると、中学生・高校生の世代。そこで、「彼らの主体性をどう育てていくか」というテーマが生まれました。

そこで、僕らが提供しなければいけないものは何か。話し合いを重ねて、3つに絞り込みました。「安心して集まれる “場所”」「やってみたいことに挑戦できる “機会”」「地域と出会い、関わる “つながり”」。この3つを、僕たちのミッションでありバリューとして提供していこう、というのがNPOの出発点です。

──立ち上げメンバーは、どういった方々なのでしょうか。

最初は4人でスタートしました。僕は当時、WeDの骨格を造りつつ、市議会議員として政策面や行政との橋渡しを担当しました。代表理事の吉森は現役の学校の先生で、「高校生たちはもっと力があるはずなのに、今の環境ではそのパワーを発揮できていない」という現場感覚から強い問題意識を持っていました。もう1人のメンバーは大学生で、教育分野に興味があり、「人生の岐路に立つ高校生を支えることで何かを変えられるかもしれない」という思いで関わってくれました。そして、市役所の職員が入り、まち全体の視点から支えてくれています。

よく「唐津を盛り上げるために立ち上げたんですよね?」と言われるのですが、正直に言うと、最初からそんな大きな志を掲げていたわけではないんです。むしろ「将来、自分たちと一緒にまちを盛り上げてくれる仲間を増やしたい」という、個人的なモチベーションから始まっています。ただ、その活動が結果的に高校生の成長や地域の変化に繋がっていくことが分かってきました。

──唐津という地域ならではの課題は、どのように捉えておられますか。

一番大きいのは、「世界の狭さ」です。唐津には大学がないこともあり、高校を卒業すると多くの子が一度まちを出ていきます。それ自体はとても良いことなんですが、問題は「戻ってこない」こと。データ上は、唐津に戻ってくるのはわずか3%程度です。そもそも高校生たちは、親や教員以外の大人と接する機会がほとんどありません。どんな仕事があるのか、どんな生き方があるのかを知らないまま、「学力だけで行き先が決まる」ようなルートをたどる子も多い。だからこそ、「世の中にはもっと色々な選択肢があるんだよ」ということに気づいてもらうことが、僕らの設定している大きなテーマです。

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“成果より成長”。高校生と地域が育ち合う、5年間の手ごたえ。

──高校生の主体性を育てるうえで、具体的にどのような工夫をされていますか。

一番意識しているのは、「答えを言わない」ことです。大人は、ついつい正解を教えたくなります。実際、最初の頃は、口を出してしまっていた時期もありました。今は、選択肢を示すことはありますが、決定は高校生に任せています。そして、彼らが選んだことについては、「自分で選んだんだから責任を持とう」と伝えます。主体性とは、「自分で選んで、自分で責任を引き受ける力」だと思うので、そこは徹底しているところです。

──印象的なエピソードや、高校生たちの成長を実感した瞬間はありますか。

正直、エピソードは山ほどあります(笑)。最初は何をするにも毎回「これどうしたらいいですか?」と聞きに来ていた子たちが、僕らが答えないので、だんだん自分たちで考えて動くようになっていきました。分かりやすい高校生の成長で言えば、うちの活動を題材にして総合型選抜試験に臨み、志望する大学に合格した子たちもいますし、「ここの活動があったから、この進路を選びました」という声も毎年のように届きます。

また、高校を卒業して一度唐津を離れたOB・OGが、年に一度の同窓会や忘年会のタイミングで戻ってきてくれるようになりました。市役所に就職したうちのOBの一人が幹事役になって、「帰ってきたらここに集合ね」と半ば強制的に(笑)集めてくれているんです。
そういう「帰ってくる理由」があること自体が、僕らの目指している「唐津の種をまく」というイメージに近いですね。

さらに、うちを卒業した子たちを「ぜひ雇いたい」と言ってくださる企業さんも出てきました。高校生の頃から一緒に活動してきた子の成長を間近で見て、「こういう若者なら、ぜひうちで働いてほしい」と言ってもらえるのは、本当にうれしい評価です。

──活動を始めてから5年間、地域との関わり方にも変化がありましたか。

議員時代も含めて一貫して取り組んできたテーマが、「高校生が使える場所を増やす」ことです。「やる気はあるけれど、場所やお金がなくて一歩を踏み出せない」という状況を改善していきました。一方で、地域との関係には難しさもあります。例えば、高校生がまちなかで文化祭を企画したとき、手づくりのチラシやポスターのクオリティを見て、「もっとちゃんと指導して欲しい」といった声が出たこともあります。挨拶がなかった、連絡が遅かった、といった声もありますね。ただ、僕らが重視しているのは「成果より成長」です。プロ並みのデザインや完璧な段取りを高校生に求めるのではなく、「その不完全さも含めて学びに変えていく」というスタンスについて、理解を求めるようにしています。

──その意味では、「受け入れ側の理解を促進する」という視点も重要になってきそうですね。

まさにそこが、今一番力を入れている部分です。高校生は、いい意味でも悪い意味でも「未熟」です。礼儀もこれから身につけていく段階ですし、社会の常識やコミュニケーションも練習中です。その彼らが地域に飛び出していくわけですから、最初から「きちんと挨拶ができて、礼儀正しくて、一緒に地域を盛り上げてくれる存在」を期待されても、それはちょっと酷です。

一方で、大人の側も「怒り方」を忘れてしまっているところがある。ちょっとした失敗に対して、直接本人にではなく、大人側の我々に伝えてくる。これでは、お互いにとって学びになりません。僕らが地域の方々にお願いしているのは、「高校生を社会人1〜2年目くらいの存在として、一緒に育てるつもりで関わってください」ということです。未熟さを前提に、時には叱り、時には励ましながら関わっていただく。そのためのネットワークや仕組みづくりを、今まさに進めているところです。

日本一高校生が活動しやすいまちへ。
成長の「見える化」と、未来につながる“夢ビル構想”

──今後の展望や、取り組みたいことについて教えてください。

高校生自身や取り巻く環境については、正直、僕らが当初10年くらいで到達できたらいいなと思っていた姿に、かなり近づいてきています。高校生たちは僕らのキャパを超えるほど集まってくれていますし、先輩が後輩を育てる循環も回り始めています。一方で、まだ大きく残っているのが、「お金」と「地域側の文化づくり」の2つです。

これまでは、佐賀県のふるさと納税を活用した制度にかなり助けられてきました。しかし、これだけに頼り切るのではなく、長期の委託事業や企業との連携など、もう少し裾野を広げていく必要があります。そこで今チャレンジしているのが、高校生の成長を「見える化」する仕組みづくりです。

大学などと連携しながら、ルーブリック(評価基準)を用いて、高校生がどんな課題に挑戦し、どんな変化を遂げたのかをデジタル上で記録していくプラットフォームを開発しています。ちょっとテレビゲーム的な世界観で言うと、「ドラゴンクエスト」のようなイメージです。地域が抱える課題を「ダンジョン」として設定し、高校生がそのダンジョンに挑戦して、結果を出すことでレベルアップしていく。活動履歴はポートフォリオとして蓄積され、彼らにとっても「自分はここまでやってきた」と示せる財産になるようにしたいと思っています。

企業さんにとっては、「自社が出した100万円の協賛金で、どの高校生がどのようなチャレンジをして、どのような成長を遂げたのか」が見えるようになる。その対価としてきちんとお金をいただく、という関係性を目指しています。今までのように「海岸清掃をしました」というアウトプットだけで終わるCSRではなく、その先のアウトカム・価値まできちんと可視化して御恩を返していきたいですね。

──ハード面の「夢」についても、構想をお持ちだそうですね。

はい。僕らの中で「夢ビル」と呼んでいる構想があって、3階建てのビルを丸ごと“高校生と地域のための循環拠点”にしたいと考えています。1階は、高校生たちが自由に活動できる居場所。2階は、シェアオフィスとして大人が仕事をする場。3階は、ゲストハウスとして外から来る人が泊まれる場。2階・3階で生まれた収入を、ビルの家賃や高校生の活動費に回していく。そんな循環モデルを構想して、一度は契約書の作成直前まで進んだのですが、現状の資金規模やリスクを考え、「今そこまで無理をすべきではない」と判断していったん立ち止まりました。

ただ、今は別の方が似たようなビルを借りていて、「一緒にやろうか」という話も出てきています。ハード面の完成形は、まだ時間がかかるかもしれませんが、いつか必ず実現したい夢ですね。

──最後に、これから一緒に関わってほしい「大人」や「企業」に向けて、メッセージをお願いします。

僕らが目指しているのは、「日本一、高校生が活動しやすいまち・唐津」です。「唐津の高校生ってすごいよね」「あそこは高校生が主役のまちだよね」と言われるような場所にしたい。そのためには、僕らNPOだけでは到底足りません。高校生たちは、放っておいても伸びていく優秀な子が多いです。だからこそ、これから必要なのは、「その伸びを受け止め、共に育つ大人」が増えることだと思っています。

未熟さも含めて、怒ったり、励ましたりしてくれる大人。「成果」だけでなく、「成長」を一緒に喜んでくれる企業。CSRとしてだけでなく、「将来の仲間づくり」として高校生に投資してくれる組織。そういった方々と一緒に、ゆっくりでも、確実に文化をつくっていきたいですね。

そして、高校生に伝えたいのは、「やりたいことがあるなら、ここを遠慮なく使ってほしい」ということです。唐津の外に出て行くのもいい。でも、そのときに「帰って来たい」と思ったら、いつでも戻ってこられる場所と人がいる。その“唐津の種”を、これからも一緒にまいていけたらうれしいです。

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