チエヒロ | 本質的な「知恵」を、もっともっと広げる! https://chiehiro.com 読んだあと、ちょっとだけ世界の見え方が変わる。各分野の専門家に聞いた"本当のところ"を、わかりやすく、面白く。 Wed, 02 Sep 2026 19:04:19 +0000 ja hourly 1 https://chiehiro.com/wp-content/uploads/2026/03/icon-1-150x150.png チエヒロ | 本質的な「知恵」を、もっともっと広げる! https://chiehiro.com 32 32 【第4回(最終回)】「社会を、変えていい仕事」――ソーシャルワーカーが狙う、本当の射程 https://chiehiro.com/ideguchi4/ Sun, 30 Aug 2026 17:44:23 +0000 https://chiehiro.com/?p=2366

「ソーシャルワーカーは、社会を変えていい職業だ」。社会福祉士・井手口誠さんが4回の取材の最後に語ったのは、目の前の一人を支える仕事が、なぜ制度や環境そのものを変える射程まで持つのかという話だった。]]>

――井手口誠が辿り着いた、ひとつの答え

ソーシャルワーカーとは、何をする人なのか。

社会福祉士の国家資格を持つ人。生活に困った人の相談に乗る人。介護や障害者支援の現場で働く人――。世間が抱くイメージは、おおむねこのあたりに収まる。けれど、これまで3回にわたって井手口誠さんの語りを聞いてきた読者なら、もう気づいているはずだ。それは、ソーシャルワーカーという職業のごく一部分でしかない、ということに。

では、ソーシャルワーカーとは本当は何者なのか。

井手口さん自身が、5時間に及んだインタビューの中で、何度も角度を変えながら答えようとしていたのが、まさにこの問いだった。最終回は、その答えを井手口さんの言葉から組み上げ直していく。

研修で登壇し、付箋を手に説明する社会福祉士の井手口誠さん

「人と環境のあいだ」に立つ仕事

インタビューの後半、井手口さんが何度も口にしたフレーズがあります。

「ソーシャルワークの土台にあるのは、人と環境の相互作用なんですよ」

人が人だけで生きているわけではない、という当たり前の事実から、ソーシャルワークは出発します。人は家族の中で、職場の中で、地域の中で、制度の中で、文化の中で生きている。困りごとが起きるときも、その人個人だけの問題であることは少ない。たいていは、その人と環境のあいだに、なんらかの摩擦や歪みがある。

「人だけを見ない、環境だけも見ない。両方の『あいだ』を見る。そこが整っていないから、その人がしんどくなっているんじゃないか――そう考えるのが、ソーシャルワークなんです」

これは医療とも、心理学とも、教育とも違う視点です。医療は人の身体に介入する。心理学は人の内面に介入する。教育は人の能力に介入する。けれどソーシャルワークは、人と環境の「あいだ」に介入する。

「だから、人にも働きかけるし、環境にも働きかける。両方やっていいんですよ」

両方やっていい、という言葉は軽やかですが、含意は深い。ソーシャルワーカーは、目の前の利用者を支援するだけでなく、その人を取り巻く家族・職場・地域・制度――場合によっては社会そのものに介入する権限を、職業として与えられている、ということです。

社会を変えていい職業がある

世界のソーシャルワーカーが共有する「グローバル定義」を、もう一度引いてみます。

「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である」

最初に出てくる言葉が「社会変革」であることに、多くの人は意表を突かれるのではないでしょうか。福祉の専門職の定義の冒頭に、社会を変えるという過激な動詞が置かれている。

井手口さんは、これを当然のこととして受け取っています。

「ソーシャルアクションって、ちゃんと相談の技法のひとつなんですよ。社会を変える、っていうのは、ソーシャルワーカーが現場でやっていい――というか、やるべき仕事なんです」

第2回で井手口さんが「補助金に頼るビジネスはもう終わりにしたい」と語った背景にあるのも、この社会変革の発想です。制度が歪んでいるから現場が疲弊している。だったら制度のほうに手を入れる――それも立派なソーシャルワークの実践だ、と井手口さんは言います。

「個人を一生懸命支援することも大事です。でもそれだけだと、いつまで経っても同じ問題が再生産される。だから、社会の側にも働きかける。両方やる職業なんですよ、ソーシャルワーカーは」

社会を変えていい職業がある――この事実が、もっと広く知られていい、と井手口さんは強調します。それは、ソーシャルワーカー自身がまず、自分の仕事の射程を取り戻すために。

「人の幸せを追求するのが、福祉なんですよ」

井手口さんが取材中、もっとも素朴に、もっとも繰り返し口にしたのが、この一言でした。

「人の幸せを追求するのが、福祉なんですよ」

第1回でも触れたように、日本では「福祉」は「弱った人を助けるもの」というイメージで固定されています。生活保護、介護、障害者支援。やばくなったときに使う、最後のセーフティネット。

井手口さんの定義は、もっと広い。

「障害があろうがなかろうが、子どもだろうが大人だろうが、高齢者だろうが、福祉って本来、みんなにあるものなんですよ。みんなの幸せを、専門家がサポートする仕組み――それが福祉です」

グローバル定義の言葉でいえば、これが「エンパワメントと解放」の射程です。パワーレスになった人を救うだけでなく、すべての人がより自分らしく生きられるよう、力を引き出していく。

井手口さん自身、AIを「思考の義足」として障害のある利用者に手渡す実践を語りながら、こう言いました。

「義足って、本来は怪我した人や障害のある人のためのものでしょう。でも、もし健常者がそれを使ってもっと速く走れるなら、使ったらいいじゃないですか。福祉の技術も、それと同じなんです」

ソーシャルワーカーが扱う技術――対話のファシリテーション、意思決定支援、人と環境のアセスメント、エンパワメントを促す関わり方――は、本来、誰の人生にとっても役に立つ技術です。それが日本では「弱者のためのもの」に押し込められてしまっている。井手口さんは、この押し込めの蓋を開けに行こうとしています。

「実践に基づいた専門職であり、学問である」

グローバル定義の末尾には、ぽつりとこう書かれています。

「実践に基づいた専門職であり、学問である」

実践と学問の両輪。これがソーシャルワーカーの本質を語る上で、決定的に重要なフレーズだと井手口さんは言います。第1回で触れた通り、日本ではこの「学問」の側が抜け落ちている。

「現場の人たちは、本当によく実践しているんです。でも、自分のやっていることを言語化する訓練を受けていない。だから、せっかくの実践が次の世代に渡らないし、組織にも社会にも還元されない」

これは個々のソーシャルワーカーが怠慢だ、という話ではありません。日本のソーシャルワーカー教育、現場の制度設計、評価の仕組みが、すべて「実践のみ」に偏っている結果です。

井手口さんがAIによる言語化支援や、ソーシャルワーク実践のデータベース化を構想しているのは、まさにこの片輪走行を直すためです。

「実践と学問が両輪で回りはじめたら、ソーシャルワーカーって、もっとずっと強い専門職になれるんですよ」

学問とは、ここでは大学のアカデミアだけを指しません。日々の支援を言語化し、構造化し、共有財産にしていく営み全体です。井手口さんの言葉でいえば「実践知の共有財産化」――それが、ソーシャルワーカーが取り戻すべきもう一つの本質です。

人権という、足元の岩盤

そして、これらすべての土台に置かれるのが「人権」です。

グローバル定義は、ソーシャルワークの中核原理として「社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重」を掲げています。井手口さんが社会福祉士の勉強を始めたとき、もっとも強く揺さぶられたのが、この「人権」という岩盤の存在でした。

「俺、人権って考えたことなかったな、って思ったんですよ。それまで20年近く市民活動をやってきていたのに、です」

人が人として持っている権利を、誰がどう守るのか。義務と権利の主語は誰にあるのか。公共の福祉とは、本当はどういう意味なのか。これらは、日本社会では学校でも家庭でも、丁寧に教えられない概念です。

ソーシャルワーカーは、この「教えられない概念」を職業の中核に据えなければならない、希少な存在です。

「ニュートラルな立ち位置から、人の権利ってなんだろう、って考えられる人が増えないと、社会の議論はいつまでも感情論で終わってしまう。ソーシャルワーカーは、その『考える人』のひとりであるはずなんです」

シングルマザー支援、障害者雇用、子どもの貧困、共同親権、生活困窮――井手口さんが現場で出会ってきた論点は、突き詰めればすべて人権の問題に行き着きます。表面の制度や数字をなぞっているだけでは、本当の解決には届かない。

「人の権利を守るって、どういうことなのか。それを考え続ける職業――それがソーシャルワーカーなんだと、僕は思っているんです」

ソーシャルワーカーとは、何者か

ここまでの井手口さんの言葉を、ひとつの像に組み上げてみます。

ソーシャルワーカーとは、人と環境の「あいだ」に立つ職業である。社会変革を技法として持ち、人々のエンパワメントと解放を促し、実践と学問の両輪でその仕事を磨き、そのすべてを人権という岩盤の上に据えている。

利用者個人を支援するだけでなく、その人を取り巻く環境にも介入する。制度に問題があれば制度を変えに行き、社会の認識に歪みがあれば認識を変えに行く。そして、その仕事の対象は「弱者」だけに限られない――すべての人が、より自分らしく生きるために、ソーシャルワークの技術は使われ得る。

これが、井手口さんが3回の連載を通じて言いたかったソーシャルワーカーの本質です。

だから井手口さんは、AIとDXを現場に持ち込みます(第2回)。書類仕事に潰されているソーシャルワーカーは、本来の射程を発揮できないからです。

だから井手口さんは、補助金依存からの脱却を訴えます(第2回)。補助金は支援対象を「弱者」に固定し、ソーシャルワークの広い射程を狭めてしまうからです。

だから井手口さんは、「触媒」という新しい役割を構想します(第3回)。これは障害者雇用の話であると同時に、組織と社会の人権意識を底上げするソーシャルアクションでもあるからです。

点として見えていたピースが、ソーシャルワーカーの本質という一つの問いに向けて、すべて収束していきます。

ある社会福祉士の挑戦

井手口誠さんは、福岡で働く一人の社会福祉士です。事業所で生活相談員を務めながら、社内のDX推進担当を兼ね、若い世代を巻き込んだ事業構想を進めている。一見すると、あちこちに手を伸ばしている人物にも見えます。

けれど、5時間のインタビューを終えた今、それらすべてが「ソーシャルワークを社会に実装する」という一つの仕事の異なる側面でしかないことがわかります。

「ソーシャルワークを、ちゃんと社会の中に実装したいんですよ」

井手口さんが繰り返したこの言葉は、業界向けのスローガンではありません。グローバル定義に書かれた、ソーシャルワーカーという職業の本来の射程を、日本社会の中で取り戻す――そういう構想の宣言です。

そのために、井手口さんは仲間を集めようとしています。

「同じ価値観を共有できる福祉職の仲間。それから、社会に対して何かいいことをしたいと思っている若い人たち。あとは、人権意識をきちんと持って組織を作ろうとしている経営者の方々」

これらの人々を、ソーシャルワークという土台の上に集める。そして、AIとDXで現場に余裕を作り、補助金に頼らないビジネスモデルでサービスを回し、障害のある人を触媒として組織に迎え入れる。

「日本人って、もともと助け合う民族だったんですよ。村社会の中で、誰かが屋根を葺けば、みんなで一緒に手伝う。そういう助け合いのDNAは、まだ消えていないと思うんです」

助け合いを、もう一度――けれど今度は、補助金依存でも、属人的な善意でもなく、テクノロジーと経営とソーシャルワークの言葉で再設計された形で。井手口さんが描いている風景は、福祉業界の改革にとどまらず、日本社会のあり方そのものに対する、ささやかだけれど芯のある提案になっています。

結び――ソーシャルワーカーは、社会の触媒である

第3回で語られた「触媒」というキーワードは、障害のある人だけに当てはまるものではないのかもしれません。

ソーシャルワーカー自身もまた、社会にとっての触媒である――。

人と環境のあいだに立ち、ぶつかり合いを恐れずに介入し、その場にい続けることで、組織や地域や社会の側を変えていく。井手口さんが事業所で利用者と「AIと3人で相談」している光景も、生活支援コーディネーターに街づくりの作法を教えている光景も、中小企業に福祉技術を実装しに行こうとしている構想も、すべては触媒としてのソーシャルワーカーの仕事です。

「ソーシャルワーカーは、もっと社会に出ていっていいんですよ。制度の中に閉じこもっていないで」

井手口さんはそう言って、笑いました。

社会変革と社会開発、社会的結束、エンパワメントと解放――グローバル定義に書かれたあの広大な射程を、日本のソーシャルワーカーが取り戻すとき、福祉という言葉が指す風景は、いまよりずっと豊かなものになるはずです。

井手口誠さんという一人の社会福祉士が始めようとしている挑戦は、その風景を作り変える、最初のひと押しになるかもしれない。

(インタビュー連載完)

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冤罪はなぜ起きるのか|有罪率99.9%の構造と、無罪を勝ち取った男性の記録 https://chiehiro.com/enzai-kouzou/ Wed, 12 Aug 2026 19:39:54 +0000 https://chiehiro.com/?p=2353 「日本の刑事裁判の有罪率は99.9%」——この数字を聞いたことがある人は多いと思います。ドラマのタイトルにもなりました。しかし、この99.9%が何を分母にした数字なのかを正確に説明できる人は、そう多くありません。

そして、その数字の向こう側には、実際に無実の罪を着せられ、それでも闘って無罪を勝ち取った人がいます。チエヒロは、その一人に取材しました。この記事では、まず冤罪が生まれる構造を統計と制度から整理し、最後に当事者の証言へつなぎます。

有罪率99.9%とは、何の数字なのか

まず押さえておくべきは、99.9%は「起訴されたあと」の数字だということです。警察が捜査した事件のすべてが裁判になるわけではありません。

2024年の通常第一審事件を見ると、終局総人員5万290人のうち、有罪は4万8004人。無罪はわずか92人でした。割合にすると無罪は0.2%です。略式起訴を含めた全体で見れば、無罪の割合はさらに小さくなります。

一方で、検察が起訴しなかった割合——不起訴率は約68%にのぼります。つまり検察は、送致された事件の3分の2以上を裁判にかけていません。

なぜ無罪判決はこれほど少ないのか

この2つの数字を並べると、構造が見えてきます。検察が「確実に有罪にできる事件だけを起訴する」という実務慣行が、99.9%という数字を作っているのです。

これは「精密司法」と呼ばれ、法務省は制度の正確さの表れだと説明しています。捜査段階で慎重に選別しているのだから、起訴された事件はほぼ確実に有罪である——という理屈です。

ただし、この構造には裏側があります。一度起訴されてしまえば、無罪を勝ち取ることは統計上きわめて難しいということです。0.2%という数字は、起訴された時点で有罪がほぼ既定路線であることを意味します。そして起訴するかどうかを決めるのは、検察です。

「人質司法」とは何か

冤罪を語るうえで避けて通れないのが、人質司法と呼ばれる問題です。

これは、容疑を否認したり黙秘したりする被疑者・被告人の身柄拘束を長引かせ、事実上、自白を促す構造を指します。数字にも表れています。否認事件の第1回公判前の保釈率は12.3%。自白事件では25.9%——およそ半分です。

「認めれば出られる。認めなければ出られない」。この構造の中で、無実の人が「早く家に帰りたい」という理由だけで、やっていないことを認めてしまう。冤罪の入り口の一つが、ここにあります。

冤罪はどこで生まれるのか

過去の冤罪事件を検証すると、いくつかの共通する要因が浮かび上がります。

1. 自白偏重

「自分がやりました」という自白が取れると、本当に有罪なのかを検証する作業が後回しになりがちです。自白は「証拠の王」と呼ばれてきましたが、同時に、最も作られやすい証拠でもあります。

2. 密室での取り調べ

取り調べは、捜査官と被疑者が1対1で向き合う密室で行われます。その場で助言を受けることはできません。何時間も、何日も繰り返されるなかで、抵抗する気力を失っていく。可視化(録音・録画)は一部の事件に限られています。

3. 供述に頼った立証

物的証拠が乏しい事件では、「誰がそう言ったか」が決め手になります。傷害や暴行のように、目撃者の記憶と当事者の言い分が食い違う事件では、供述の信用性がすべてを左右します。診断書や現場の状況といった客観的な証拠が、どこまで検証されるか。ここが分かれ目になります。

それでも無罪を勝ち取った人がいる

統計は0.2%と言います。しかし、その0.2%の中に、実在する人がいます。

チエヒロが取材した男性は、ある集まりの席での出来事をきっかけに暴行の疑いをかけられました。警察と検察による複数回の取り調べ、通常より長い審理を経て、一審では有罪判決。相手側からは損害賠償請求も届いていました。

彼は控訴しました。そして二審で判決は覆り、無罪が確定しています。

なぜ彼は勝てたのか。取材で見えてきたのは、感情ではなく記録で闘ったという事実でした。日時、会話、やりとりの記録。彼は起きたことを一つずつ記録に残し、弁護士とともに相手の主張の矛盾を突いていきました。

その全過程は、本人の証言としてこちらの記事にまとめています。

▶ 無罪の確率、0.1%。権力に打ち勝った、「問題判決」を追う。

身に覚えのない疑いをかけられたら、何ができるのか

取材を通じて見えてきた、実際に効いたことを挙げます。法律の専門的な助言ではなく、当事者が実際にやったことの記録です。

  • 記録を残す——日時、場所、同席者、やりとりの内容。記憶は薄れ、書いたものは残ります
  • 早い段階で弁護士に相談する——費用が心配なら、まず法テラスという選択肢があります
  • 客観的な証拠を探す——診断書、その場の記録など。相手側の主張と矛盾する材料は、どこかに残っていることがあります
  • 取り調べで、事実でないことは認めない——一度署名した調書を後から覆すのは、きわめて困難です

99.9%の外側にあるもの

有罪率99.9%という数字は、制度の精度を示すものとして語られてきました。同時にそれは、起訴された時点で、疑いを晴らすことが極めて難しいという事実の裏返しでもあります。

その0.2%の内側で何が起きているのか。統計では見えないその部分を、チエヒロはこれからも当事者の言葉で記録していきます。

参考

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正面から向き合い、本気で叱ってくれた先生との出会い。今は居場所づくりに全力を注ぐ。 https://chiehiro.com/asuka/ Wed, 12 Aug 2026 13:55:21 +0000 https://chiehiro.com/?p=2300

「身近で気軽に来られる居場所づくり」。昼はカフェ、夜はバーとして営む「明日カフェ」には、心に傷を持った子どもたちがふらりと立ち寄る。支援の看板を掲げない理由と、店主自身の原体験を聞きました。]]>

「身近で気軽に来られる居場所づくり。こんな場所が社会全体にたくさんできたら」

 明日香さん(26)は、揺るぎない笑顔でこう答えた。

 取材場所は、彼女が切り盛りする「明日カフェ」。昼はカフェとして、夜はバーとして営業する。支援者も一般の客も、コーヒーやお酒を目当てに扉を開ける。そしてその同じ空間に、心に傷を持った子どもたちが、ふらりと立ち寄る。実際、この取材の最中にも顔なじみの若者が入ってきた。彼女は話を止めて「帰るとき教えてね」とだけ声をかけ、またこちらに向き直った。それがこの店の日常らしい。

 店のどこにも「支援施設」の看板はない。カウンセリングや相談支援の看板を掲げれば、専門職として料金を取らなければ成り立たない。お金を払える家の子しか来られなくなる。だからただのカフェとして開けておく。カウンセリングルームの扉は重くても、カフェの椅子には誰でも座れる。支援は、支援の顔をしていないときに一番届く。それが彼女の確信であり、「明日カフェ」の根幹だ。誰が支援する側で誰がされる側なのか、外からは見分けがつかない。見分けがつかないことに、意味がある。

 こうした活動の背景には、強烈な「自分自身も当事者だった」という原体験がある。その原体験が、彼女の情熱の土台になっている。

居場所を失った優等生——学校が安全な場所でなくなるとき

 小学生の頃の明日香さんは、全校生徒の前で表彰されるような優等生だった。それが中学1年で一変する。勉強についていけなくなり、成績は学年最下位へ。積み上げてきた「認められる自分」が音を立てて崩れた。親子関係にも深く悩み、家にも、学校にも、居場所がない。行き場を失った彼女は家の外をさまよい、今の「警固キッズ」たちと同じような夜を過ごした。

 限界は、心より先に体に来た。息ができなくなって駆け込んだ内科で告げられたのは、「ここではない。精神科です」という言葉。10代前半の少女に必要だったのは、診断名である以上に、逃げずに向き合ってくれる大人だった。

変化は「先生」との出会いから始まった

 きっかけは中学2年のとき、父親が家に連れてきたカウンセラーだった。先生は彼女ひとりではなく家族全員に向き合い、それを毎週、続けた。

 このカウンセラーは、傾聴するだけの人ではなかった。「今週あったこと」「あなたはどう思いますか?」と問い、間違っていたら「それはズレていますよ」とハッキリ告げる。物事の捉え方の歪みから逃げも隠れもさせず、しかし突き放しもしない。真正面から、彼女のために叱ってくれた。

 大人に「怒られた」経験なら、それまでにいくらでもあった。だがその多くは、大人の都合や体面のためにすぎないと彼女は感じていた。しかし先生は違った。目を見て、本気で向き合って叱る。ごまかしは許さないが、追い詰めることは絶対にしない。同じ「叱る」でも、まるで別の行為だった。今も彼女の胸に残る言葉がある。良くない行動を「知らなかったから」と言い訳したとき、先生はこう言った。

「『無知は罪だ』って。その言葉が一番響いて、今も覚えています。知らないことで悪いことをし続けるのは良くないんだって、そこで初めて思えた」

 この一言で人生が変わった――という話ではない。彼女自身が、それをきっぱり否定する。

「具体的にこれがあったから変わった、じゃないんです。本当に毎週の積み重ねで変わっていけた。徐々に、です」

 急激に変わったわけではない。徐々にだ。揺り戻しのような経験もした。カウンセリングが途切れ、状態が悪化した時期もあった。それでも毎週の積み重ねは続き、頑なだった心の氷は少しずつ溶けていった。そして崩れかけていた少女に、生まれて初めての夢ができる。先生みたいになる、という夢だ。

「受けたくても、受けられない人がたくさんいる」——居場所をつくると決めた高校1年

 居場所をつくると決めたのは高校1年、支援を受け始めて3年目のときだった。きっかけは、周りの友人たちだ。当時の彼女の周りには、親の恋愛に巻き込まれて不安定な生活を送る子、家庭の事情で進学させてもらえなかった子、身体的・心理的な虐待を受けていた子など、家庭に困難を抱えた友人ばかりが集まっていた。自分は毎週カウンセラーに向き合ってもらえている。友人たちには、その大人がいない。

「私は偶然この親のもとに生まれて、お金があったから支援を受けられた。でも、受けたくても受けられない人がたくさんいる。それに気づき出した頃に、この夢を持ちました」

 救われた側と救われない側を分けたのは、本人の努力ではなく偶然だった。この認識が、彼女の活動のすべての出発点にある。だから無料でなければならない。だから専門の看板を掲げてはならない。冒頭に書いた明日カフェの設計は、高校1年のこの決意から一直線につながっている。

学年ビリからの国家資格——社会福祉士になるまで

 夢はできた。だが現実は厳しい。中学1年から勉強を捨てていた彼女の学力では、福祉を学ぶ大学など到底届かない。高校2年で「このままでは大学に入れない」と突きつけられ、そこから彼女は走り出す。教師たちに頭を下げてプリントをもらい、自学を始めた。上位に届いたわけではない。それでも最下位からは抜け出し、学年の中ほどまで戻した。懸命に動いてくれた教師たちの後押しもあり、大学への道がつながった。

 大学では4年間、すべての授業を最前列で受けた。多い時期は1日15時間、机に向かった。そして社会福祉士と精神保健福祉士、二つの国家資格を取得する。中学時代は学年最下位だった少女が、である。夢が学力を追い越した4年間だった。

賞状を手に笑顔を見せる「明日カフェ」の関係者たち

挫折も、道のうち

 もっとも、資格を取れば支援者になれるわけではなかった。卒業後に就職したのは、傷ついた子どもたちが入所する施設。そこで彼女は打ちのめされる。子どもたちは、自分が受けてきた傷を、そのまま彼女にぶつけてきた。「この子はどんな環境にいたのか」考え出すと夜も眠れず、やがて出勤できなくなった。適応障害と診断され、半年間引きこもった。

「支援者になりきれなかった。入り込みすぎたんです。でも、あの頃の自分からしたら、あれも正解のルートだったと思ってます」

 挫折を失敗と呼ばず、道のうちに数える。この距離の取り方も、揺り戻しを含めて回復と呼ぶことを教えた先生の流儀に、どこか通じている。

 その後はNPOの居場所づくり活動に加わり、繁華街に集まる子どもたちと関わった。スクールソーシャルワーカーとして学校現場にも通算3年間立った。そして活動に共感し、資金面で支えてくれる人との出会いに恵まれる。今年度からは他の仕事をすべて辞め、明日カフェ一本に絞った。高校1年の夢は、10年かけて現実の店になった。

受け止める。ただし、ダメなことはダメ——子どもとの向き合い方

 明日カフェでの彼女は、子どもを叱り飛ばすことをしない。まず受け止める。彼女には持論がある。甘えは、練習だというのだ。甘えていい時期にきちんと甘えられた人は、やがて自立できる。逆にその時期に甘えさせてもらえなかった子は、人との距離の取り方を練習できないまま大人になる。目の前で不器用に甘えてくる子どもたちは、後者だ。

「だから一回、全部受け入れたい。でも、ダメなことはダメって言ってます」

 約束の時間を破る子には、ここでは私との約束だから許されても、社会で同じことをすれば自分が傷つくと伝える。危うい方向に流されそうな子には、頭ごなしに否定せず、結局苦しむのは自分自身であり、周りも傷つくのだと語りかける。受け止めはするが、ごまかしは見逃さない。どこかで聞いた流儀である。彼女が中学2年から毎週向き合ってもらった、あの流儀だ。彼女はいま、かつて自分が救われたのと同じ方法で、子どもたちの前に座っている。

 優しさとは何かと問うと、彼女は長く考え込んだ末、自分を優しいとは思わないと前置きして、こう言った。

「ちゃんと叱るのは、甘さじゃなくて優しさだと思ってます」

希望を捨てず、願い続ける——子どもの居場所を続けるということ

 子どもたちに頼られ、寄りかかられる毎日は、軽いものではない。しんどくて動けなくなる日があることを、彼女は隠さない。それでも続けてこられたのは、かつて先生ひとりだった「向き合ってくれる大人」が、大人になるにつれて増えていったからだ。彼女の夢を応援し、支える人たちがいる。今度は彼女が、誰かにとってのその大人になっている。

 目指す社会を聞くと、迷いのない答えが返ってきた。

「私の理想は、虐待がなくなった社会。それは無理かもしれません。だけど私は、ずっと無理なことを願ってるので。虐待がない社会を目指して行動します」と。

 守りたいのは、選択肢の少ない子どもたち。お金も経験も知識も人脈もない子どもたちに選択肢を増やすのは大人の責任だと、彼女は言う。冒頭の「こんな場所が社会全体にたくさんできたら」という言葉は、その責任を、社会のもっと多くの大人と分かち合いたいという呼びかけでもある。

 先生との交流は今も続いている。壁にぶつかれば会いに行き、教えを持ち帰る。彼女にとって先生は、今もなお「師匠」であり続けている。

 取材を終える頃、店にはまた新しい客が入ってきた。コーヒーを飲みに来た客なのか、居場所を探しに来た子どもなのか、見分けはつかない。つかないままでいい。かつて居場所を失った少女がつくったこの店は、今日も誰にでも、同じ顔で扉を開けている。

テーブルを囲んで語り合う「明日カフェ」店内の様子

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無罪の確率、0.1%。権力に打ち勝った、「問題判決」を追う。 https://chiehiro.com/enzai/ Mon, 20 Jul 2026 18:56:57 +0000 https://chiehiro.com/?p=2283

無罪判決から数か月後、担当検事はもうその街にいなかった——。無罪の確率0.1%と言われる日本の刑事裁判で、権力に打ち勝った「問題判決」を、当事者の証言から追いました。]]>

無罪判決から数か月後、男性が検察庁に問い合わせると、担当検事はもうその街にいなかった。

公務員の異動期ではない、年度途中の転出。行き先は、遠く離れた他県の小さな支部。栄転と呼べる要素は、どこにもなかった。彼を起訴した検事は、飛ばされていた。

男性が犯したとされた罪は、重いものではない。「酒の席で、隣の男を殴ったか、殴っていないか」――有罪になっても罰金数万円で終わる、捜査の世界で「微罪」と呼ばれる類いの話である。

その微罪が、検事の経歴に傷をつけた。

日本の刑事裁判では、起訴された者の99.9%が有罪になる。検察にとって無罪判決は敗北では済まされない「あってはならない事故」であり、内部では「問題判決」という隠語で呼ばれる。無罪が出ればその報告は組織の上層まで駆け上がる。ちなみに一度起こした公訴を検察が自ら取り下げるには、検事総長、次長、そして法務大臣の決裁が要る。つまりこのシステムは、走り出したら止まらない。止める設計になっていないのだ。

そのシステムを止めたのが、「無罪判決」を勝ち取った男性だ。誰もが知る大手企業に勤める、50代の会社員。ここではAさんと呼ぶ。

Aさんは、事件からの二年間で刑事司法の本を100冊以上読み、裁判所に通って200件近い裁判を傍聴した。その200件の中に、無罪判決はただの一度もなかった。自分のもの以外は。

話は、会費5千円の飲み会から始まる。

夜の居酒屋のカウンター席のイメージ

五千円の夜——冤罪は、どこから始まったのか

10年ほど前の初夏、西日本のある都市。大学の同窓が集まる小さな洋風居酒屋に、Aさんは一人で出かけた。後輩の学生が楽器を演奏してくれるという趣向で、「音楽も聴けて5千円ならいいよね」――その程度の夜のはずだった。

テーブルは7人。そこに、顔を見たことがある程度の男が2人いた。男Xと男Yとする。

2人は最初から場を支配した。投資の話、商売の話。威勢だけはいいが、長年ビジネスの現場で人を見てきたAさんには、実像の見当はついた。聞き流せば、矛先がこちらに向く。Aさんが口を開くたび、茶化す。Aさんと話したい学生が声をかければ、割り込む。それが1時間以上続いた。

そして糸が切れた。Aさんは立ち上がり、怒鳴った。

「怒鳴ったのは事実です。それは間違いない。あまりにもひどかったから」

騒ぎに出てきた店主へ会費の倍の金を渡し、詫びて店を出た。大人の酒席の、苦い一幕。普通なら、そこで終わった話だった。

だが翌朝、男Xはかかりつけの耳鼻咽喉科へ行き、診断書を手に入れていた。

後の裁判で明らかになるが、そこで受けた処置は、以前から通う副鼻腔炎の治療で使う鼻の吸入だけ。湿布も痛み止めもなし。カルテに怪我の所見はない。それでも、書類は書類だ。

「殴られた」と言うX。「殴ったように見えた」と言うY。そして診断書。――この時点で、一人の人間を二年間挽き続けるシステムのパーツは、すべて揃ってしまったのだ。

警察からの電話——ある日突然、被疑者になる

約1か月後、会社のAさんに電話が入る。名乗ったのは個人名。不動産か貴金属の勧誘かとあしらいかけたとき、相手は言った。「警察署の者です」。

呼び出された先で告げられた容疑に、Aさんは絶句する。あなたはあの夜、Xさんを殴った。それも、2回。

酒が入っていた。怒鳴ったのも事実。──ここで、「冤罪」という現象の最も不気味な性質が顔を出す。周りが「殴った」と言い、警察が「殴った」と言うと、揺らぐのは事実ではなく、記憶のほうなのだ。数日後、法律相談の席でAさんは弁護士にこうこぼしている。

「……殴ったんかなあ」

取調べは何度も繰り返された。取調官は、悪徳警官ではなかった。むしろ逆だ。弱い者が殴られた、かわいそうに――そう信じ込んだ、正義感の強い男だった。おそらくこれが冤罪の作られ方の標準形で、悪意より善意のほうが、ずっと質が悪い。否認するAさんに、取調官は繰り返した。

巨大な歯車の前に立つスーツ姿の男性。司法制度の重さを表すイメージ

「みんな見てんだよ」——取り調べで、何が起きるのか

みんなとは誰か。何度問うても、名前は決して出てこなかった。

書類が検察へ送られると、検事は判で押したように同じ言葉を繰り返した。「謝ってきたらどうですか」。謝罪すれば金の話がつき、認めたことになり、事件は検察の手を「きれいに」離れる。全員にとって、それが一番楽な出口だった。

――ここで、読む手を少し止めてほしい。

このときAさんの前にあった道は3つ。①相手に100万円ほど包んで被害届を下げてもらう、通称「大人の対応」。②略式手続きで罰金を払い、1日で終わらせる。ただし前科がつく。③否認を貫き、99.9%の壁に正面からぶつかる。

あなたなら、どれを選ぶだろうか。会社がある。家族がいる。世間体がある。①なら、明日からすべて元通りだ。

ほとんどの人間が①を選ぶ。無実でも、選ぶ。だからこそ99.9%という数字は保たれている。あの統計は「日本の警察は間違えない」ことの証明ではない。「日本人は起訴される前に頭を下げる」ことの証明でもあるのだ。

Aさんも、傾いた。「勉強料かな」と自分に言い聞かせかけた。元警察官だった近しい知人にも相談した。「せっかく入った会社のこともある。現実的に考えたらどうか」。起訴された人間がどうなるか、誰よりも知る知人からの忠告だった。

それでも彼は③を選ぶ。理由を尋ねると、返ってきたのは「真っ直ぐな正義」や「揺るぎない信念」ではなかった。

「勇気があって戦ったんじゃないんです。あの男に頭を下げて、すみません、許してくださいと言って、そのうえ金まで払う――それだけは、どうしてもできなかった。一番引きたくないクジが、最後にそれだけ残った。それだけです」

いわゆる“英雄”の動機ではない。本人曰く「消極的な選択」。だが二年間、彼の中で一度も折れなかった。

戦闘準備——冤罪を晴らすために、何をしたのか

感情だけでは、システムには勝てない。ここからのAさんの動きが、この物語を凡百の悲劇と分けていく。

まず、記録を持った。取調室に入るとき、胸には指ほどの小さなレコーダーが忍ばせてあった。密室で何が語られようと、後に残るのは向こうの作る調書だけ――ならば、こちらも証拠を持つしかない。

その調書には、最後まで判を押さなかった。日本の刑事裁判は調書でほぼ決まる。「調書がほとんど命です。あれでほぼ100%決まる」。だから何度取調べを重ねられても、署名だけは拒み続けた。あるときは自分から「嘘発見器にかけてくれ」と申し出た。受け入れられることはなかったが、その申し出をしたという事実は残る。

家を出る朝には、妻に必ず言い残した。「夜12時を過ぎて連絡がなかったら、翌朝すぐ弁護士に電話してくれ」。取調べからそのまま逮捕された事例を、本で読んで知っていたからだ。会社には最後まで告げなかった。言えば、切られる。大きな会社ほどそうだということを、男性は熟知していたからだ。

夜と週末には、本を読んだ。冤罪、取調べ、裁判官の生態。100冊を超えた。そして裁判所に通い、他人の裁判を傍聴した。200件。目的は知識だけではない。「本番で緊張しないように、法廷という場に体を慣らしたんです」。その200回で無罪判決を一度も見なかったことは、彼に絶望ではなく、法定での「相場観」を与えた。

台風——公判は、通常の倍以上に伸びた

公判は、通常の倍以上の回数を重ねた。認めないからだ。

法廷で、相手側の証言は揺れ始めた。捜査段階の供述と食い違い、「殴った」は「殴ったように見えた」へ後退し、「よく覚えていない」「分からない」が連発された。弁護士は電話でのやり取りの記憶まで突きつけ、じわじわと信用性を削っていく。

だがAさん側には、決定打が欠けていた。あの夜のテーブルにいた、利害関係のない第三者の証言だ。学生だった。

接触は容易ではなかった。起訴前に動けば「証拠隠滅を図った」と調書に書かれかねない。起訴後、店を介して頼み、断られた。手紙を託して直接電話をもらえたときの答えも「申し訳ないですが、お断りをしたいです」。一学生にとって、刑事法廷とは、それほど重い。

流れを変えたのは、人間ではなかった。台風である。

渦の中心へ続く一本の光の道。出口の見えない裁判のイメージ

公判期日の当日、大型の台風が直撃し、街の交通が止まった。期日は流れ、審理は2か月延びた。その日は相手側2人の証言が予定されていた日だった。そしてこの2か月の間に、Aさんは大学の恩師筋の教授を介して、学生とその両親へ手紙を届ける。三度目の依頼で、返事が来た。――お引き受けします。

延期で審理の組み方が変わっていたことで、裁判所は彼女の証人採用を認めざるを得なくなった。彼女は父親に付き添われて法廷に立ち、あの夜を証言した。

さらに相手側は、自滅の証拠を自ら送ってきた。Aさんの自宅に届いた、約60万円の損害賠償を求める内容証明。弁護士と相談し、これをそのまま裁判所へ提出した。

これだけ揃えて――それでも、一審は有罪だった。罰金刑。誰も見ていないはずの殴打の瞬間が、判決文の中では、まるで見てきたかのように描写されていた。99.9%とは、そういう数字である。

控訴した。しかし、医師の鑑定尋問の請求は、却下。審理らしい審理のないまま、裁判長は言った。

次回、判決。「あなた、来ますか?」

──つまり、何も調べずに終わるのか。目の前が暗くなった。絶望を感じた。二年間が、音もなく閉じるのかと。

しかし。後から思えば、兆しはあった。この裁判長は、法廷で書類ではなく人間の顔を見て話す。書類至上主義ではなかった。判決期日を告げたとき、被告人席のAさんに、妙な一言を残した。あなた。来ますか?」

逆転無罪判決——二年間かけて、無罪が確定するまで

判決の日、法廷で読み上げられたのは、「逆転無罪」。判決文は、弁護側が控訴趣意書で突きつけた疑問の一つひとつに、ほぼすべて答えを書き込んでいた。あの「次回、判決」は絶望の宣告ではなく、すでに心を決めた裁判長の、事務連絡だったのだ。

後にAさんは知る。無罪判決を書くという行為が、裁判官の側にとってどれほど重いか。無罪判決は最高裁の事務方の目に晒される。だから書くなら、どこから突かれても耐える文章を書き切らなければならない。多くの裁判官は、その坂を登らない。登らないまま、99.9%は今日も更新されていく。

「一番驚いたのは、実は弁護士さんたちでした。職業柄、彼らが一番知っているから。一生に一度も立ち会う機会がない。無罪判決は、それほど珍しいことだそうです」

検察は上告しなかった。無罪確定。そして冒頭の場面に戻る――彼を起訴した検事は、年度途中に遠い支部へと消えた。罰金数万円の微罪が、組織の中では、それほどの「事故」だったのである。

確定後、Aさんはあの取調官に電話をかけている。「二年前の件を覚えていますか」と。

そのうえで告げた。あの2人を虚偽告訴で訴えたい、被害届を出しに行く。受話器の向こうで、かつて「みんな見てんだよ」と迫った男は、激昂した。みんなが見ていたはずの事件は、無罪だった。

「冤罪の根絶」と掲げられた看板を見上げる男性の後ろ姿

細い線——なぜ、この人は冤罪から抜け出せたのか

なぜ、この男性が勝てたのか。

頭を下げることをどうしても拒んだ一点の感情。レコーダーと、判を押さなかった調書。100冊以上の冤罪の書籍の読み込みや、関連法規の勉強。二百回の傍聴が作った場慣れ。勇気ある一人の証人。人間の顔を見る裁判長。そして、台風。

取材の間、男性のたゆまぬ努力をひしひしと感じた。しかし、その上でAさんは言う。「結局は、運の要素が大きいですよ」と。

裁判の途中、心は何回も折れたとAさんは言う。「折れたけど、レールに乗ってしまったから、やるしかなかった」。二年間、事件を思い出さない日は一日もなかった。

あれから10年近く。Aさんは今も冤罪事件を追い、死刑執行後に再審が争われる事件の集会に通い、請われれば弁護士会で体験を語る。

同じ立場に陥ってしまった場合への助言は三つ。すぐ弁護士を呼ぶこと。記録を取ること。言い負かされると感じる人は、勇気を持って黙秘すること。そして、こう付け加えるのを忘れない。

「裁判で無罪を取れ、なんて言いません。目指すべきは、起訴させないことです。私はたまたま、取れただけですから」

思い出してほしい。発端は、会費5千円の同窓の飲み会である。彼はそこで、あまりに無礼な男を怒鳴りつけた。ただ、それだけだった。

平穏な人生と被告人席を隔てる線は、私たちが思っているより、はるかに細い。そしてそこから、戻ってこられた人間は――1000人に、1人しかいない。

砂時計と法廷に並ぶ人影。長期化する刑事裁判のイメージ

(本記事は、本人の意向により、人物・地名・時期等を特定できないよう一部の情報を変更・抽象化しています)

▶ この数字の中身——有罪率99.9%とは何を分母にした割合なのか、無実の人がなぜ有罪になってしまうのかは、こちらで整理しています。

有罪率99.9%の構造と、無罪を勝ち取った男性の記録

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根性論からの、卒業。世界の野球場を渡り歩いた24歳の山内さんが、挑み芽吹かせる「みんなが楽しめる野球」のエコシステム https://chiehiro.com/yamauthi1/ Tue, 26 May 2026 08:17:46 +0000 https://chiehiro.com/?p=2269

アメリカ、ベネズエラ、ポーランド、そして日本の独立リーグ。9年間で3カ国を渡り歩いた24歳の山内さんが、京都で挑む「みんなが楽しめる野球」のエコシステム構想と、その原点。]]>

アメリカ独立リーグ、ベネズエラからアルゼンチンへ移った即席プロリーグ、ポーランドのグラウンド、宮崎サンシャインズ、そしてもう一度ポーランドへ——。24歳の山内さんは、大学3年から9年間、3カ国の海外と日本の独立リーグを、自分の身体で渡り歩いてきた青年です。「俺はお前をリスペクトしてる」。アメリカで一人の指導者からかけられたその一言が、彼のなかで静かに芽を出し、いま京都で根性論からの脱却と、みんなが楽しめる野球の追求というかたちで、小さな種になろうとしています。「学生のまま」「普段の仕事の延長線上」に、“本気で野球と向き合える場所”をつくり、海外と地域と若者を一つの円でつなぐ——その壮大な構想の中身と、原点について伺いました。

「魂が、震えたんです」——アメリカで聞いた、たった一言。

物語の核に、まずこの場面を置きたい。

大学3年生のとき、山内さんはアメリカの独立リーグに飛び込んだ。最初に所属したチームでは、思うような結果を出せずに苦しんでいた。クビと昇格が紙一枚で隣り合うような環境のなかで、「結果を出さなければ」というプレッシャーが、かえってパフォーマンスを縮こませる。誰もが経験するであろう負のループに、山内さんも嵌まっていた。

ある日、彼のなかで「目の前のことを、全力でやりきるしかない」とスイッチが入る。

不思議なもので、覚悟を決めた途端に、結果は出始めた。すると、その姿を見ていたのが、ライバルチームの監督だった。マイナーリーグへの登竜門として上位に位置する強豪チームの監督で、現役時代はメジャーリーグの第一線で活躍してきた経歴の持ち主だった。

「お前、いいな」

山内さんに、その監督が最初にかけた言葉は、彼が日本の野球で一度も聞いたことのないものだった。

「『俺はお前をリスペクトしてる』と。『お前のやることをやればいい。ダメだったら俺の責任、よかったらお前の手柄。それだけだ。やってこい』と言われたんです。野球指導者からそんな言葉を言われたのは初めて。魂が震えました」

リスペクト。

その一言が、青年の体内に深く刻まれた。それまでは、否定される空気もあった。結果が出ないと、人格そのものを問い直されるような感覚。そのなかで自信を擦り減らしてきた青年に、遠いアメリカの地で出会った一人の指導者が、向き合ってくれた。

「あの人は、選手それぞれが頑張っているポイントをちゃんと見て、『俺はそこをリスペクトしてる』と的確に言ってくれるんです。やみくもに褒めるのではなく、一人ひとりの努力の輪郭をちゃんと分かって、その上で言葉を渡してくれる。だから、響いたんですよね」

この一言が、いま京都で芽吹こうとしている、根性論を超えて選手が伸びやかに育つ野球文化への構想の、最も深い種になっている。

野球のユニフォーム姿でトロフィーを掲げる山内さん

9年で、抱えるようになった「課題感」。

帰国した山内さんが胸に持ち帰ったのは、世界の景色と、もう一つ、いくつかの課題感だった。

「9年間でいろんな国を見て、いろんな選手や指導者と関わってきたなかで、自分のなかに少しずつ残っていったものがあるんです」

たとえば、若い才能のことだ。世界中の野球の現場で、「もっと伸びるはずだったのに」と感じる選手たちに、山内さんは何度も出会ってきた。本人の資質ではなく、置かれた環境や仕組みのなかで、その芽が伸びきれずに終わっていく姿。それは日本に限った話でもないが、日本独自の構造があるのも事実だと、彼は感じている。

「指導の現場って、選手の自主性をどう育てるかと、まとまりをどう作るかのバランスが、すごく難しいんですよね。一方向に振れすぎると、せっかくの才能が伸びにくくなる側面もある。ただこれは、誰かが悪いという話じゃなくて、長年積み重なってきた文化のかたちなので、簡単に変えられるものじゃないんです」

もう一つ、彼が感じてきた課題感がある。日本の野球には、学生をやりながら本気でプロを目指せるルートが、ほぼ用意されていないという現実だ。

「サッカーだったらJリーグのユース、クラブチーム、高校の部活と、いろんな選択肢がありますよね。野球って、そこがもう少しスリムなんです。もし学生のまま、プロを本気で目指したいと思ったら、いまは大学を休学して独立リーグに行くしかない。それって、ハードルが高いじゃないですか」

ここで山内さんが語っているのは、誰かを批判する話ではない。彼自身が9年間を歩いてきた身体の記憶として、「こうだったら、もっと多くの人が生きやすい・伸びやすいのに」と感じてきたこと、その素朴な観察である。

そして、その観察から生まれてきたのが、「根性論を超えて、好きを好きなまま続けられる場所をつくる」という思想と、それを「エコシステム」として実装するという構想だった。

好きを、好きなまま、やりきれる場所をつくる。

「根性論からは、もう卒業していいんじゃないかなって、思ってるんですよ」

山内さんは、自分の思想をそう表現する。

「これは、野球を好きで始めた人が、好きなまま野球をやりきれる、というイメージなんです。途中で挫折して離れちゃう人もいれば、続けるなかで野球そのものへの愛が薄まっていってしまう人もいる。それって、ものすごくもったいないことだと思っていて」

野球を続ける動機が、いつのまにか「認められたい」「結果を出さないと居場所がない」というプレッシャーに置き換わっていく——彼は、自分自身の経験のなかでも、周囲の選手を見てきた経験のなかでも、その入れ替わりを何度も目撃してきた。

「もちろん、悔しさをバネに伸びる人もいます。それを否定したいわけじゃないんです。ただ、もう一つの選び方があってもいいよね、と思っていて。指導者が選手のことを本当に見て、『俺はお前のここをリスペクトしてる』と言葉にしてくれて、選手がのびのびと自分のスタイルで野球を続けられる場所。そういう場所が、もっと増えてもいいんじゃないかな、と」

アメリカで山内さんの魂を震わせた一言が、ここでもう一度立ち上がる。

「楽しんでやる、って軽く聞こえるかもしれないけど、実はめちゃくちゃ強い文化なんですよ。好きなまま野球をやりきった人は、いつかその経験を、また次の世代に渡せる指導者になるんです。そうやって、楽しんで野球をやる文化が次の世代に循環していく。日本全国に広がっていく。それが、僕がいちばん大事にしたいところで」

山内さんが描いているのは、個人の感情の問題ではない。指導者の世代交代を通じて、文化として循環していく仕組みの問題なのである。

海外の野球場でのチーム集合写真

「すっからかんに、空いてるんですよ」——誰も手をつけていない空白地帯。

この思想を文化として広げるためには、それを実装する「場所」が要る。山内さんが見据えているのは、まさにここである。

「日本の野球には、学生をやりながら本気でプロを目指せるルートが、ほぼないんですよね。これって、誰も模索していない空白地帯なんです。すっからかんに、きれいに空いてる」

彼は笑いながらそう言うが、目は真剣だった。

「大学生からプロになる選手は、たくさんいるじゃないですか。その人たちは別に学位を取りに大学に行ってるわけじゃない。学生をやりながらでも、プロは目指せるはずなんですよ。理屈の上では」

理屈の上では成立するはずなのに、実際にはそのルートが存在しない。なぜか。それは、現状の構造のなかで誰もそこに手をつけてこなかったから、というシンプルな理由に尽きる。

「だったら、僕がやればいい。本当にそれだけのことなんです」

——その「ただそれだけのこと」を実装するのが、これから明かす京都の構想である。

京都に、海外と学生が交わるチームを作る。

山内さんが描いている絵を、できるだけそのまま紹介したい。

舞台は京都。学生数が日本でいちばん多いこの街に、彼は「学生をやりながら本気で野球と向き合えるチーム」を立ち上げようとしている。次の候補地として福岡も視野に入っているが、まずは京都だ。

集客と選手集めの軸として彼が考えているのは、「海外野球」というコンテンツである。

「日本の野球って、実は世界的に見てめちゃくちゃ評価が高いんですよ。野球の世界ランキングで、男子・女子・男子ソフト・女子ソフトの全部で日本は1位なんです。WBCも、過去6回中3回が日本優勝。圧倒的なんですよ」

日本野球の世界的なステータスは、山内さんが海外の現場で何度も実感してきた事実だ。海外の指導者や選手たちは、日本でプレーしてみたい・指導を受けてみたいというニーズを、漠然とではなく具体的に持っている。

「ヨーロッパの代表クラスの指導者たちと話していると、『日本に行きたい』って人がたくさんいるんです。でも、その受け皿がないんですよね。だったら、僕が呼んでくればいい」

具体的な絵はこうだ。海外から20人の選手と、日本の学生20人。京都を拠点に、彼らが一緒に練習し、リーグ戦を行う。海外の指導者が日本人選手を教え、日本の指導の現場が海外の選手を受け入れる。学生は学業を続けながら、本気の野球と毎日向き合える。

「地域の方々にホームステイをお願いできたら、地域の方々と海外選手の交流も生まれます。地元企業さんがスポンサーや生活のサポートに入ってくださって、選手はオフシーズンにそこでバイトやインターンをする。野球以外の選択肢も自然に見えてくるし、その上でプロを目指す人はそのままプロを目指す。両方のレールが、ちゃんと用意されている場所をつくりたいんです」

野球を入り口にして、地域・国際交流・教育・スポンサーシップが一つの円のなかで回り始める。これが、彼の言う「エコシステム」である。

スクリーンの前に立ち、野球の構想について語る山内さん

京都の空き家、地方創生、独立リーグの再設計。

エコシステムを支える周辺ピースも、彼の頭のなかではすでに動き始めている。

たとえば、京都市が抱える空き家の問題。これは行政課題として広く知られているが、選手たちの宿舎としてうまく組み合わせれば、地域課題の解決と、選手の生活基盤の確保が同時に進む。

「いま、京都市の空き家関係の方ともお話を進めようとしているところで。提携できれば、海外の選手も日本人選手も、住む場所が確保できる。地域にとっても、空き家が活用される。両方にメリットがあるじゃないですか」

独立リーグそのものの可能性についても、彼は冷静に見ている。

「独立リーグって、いまどんどん増えているんですよ。プロ野球とは違うルートで才能を伸ばす場所として、すごく価値がある。ただ正直、運営の面ではまだ伸びしろがあるところもあって、ビジネスとして成立させるための工夫の余地が大きい領域なんですよね」

ここで彼が語っているのは、批判ではなく、機会の話である。地域住民の選抜チームと選手チームの対戦企画、お笑い芸人の客寄せイベント、引退したスターによる「マスターズリーグ」的な試合——。エンターテインメントと地方創生とプロ志望のレールを、すべて野球の球場の上で同時並行に走らせる。

「野球場のなかにレストランをつくって、そこでチケットを配るとか、地域の人にホームページの運用をお願いするとか、いろんなやり方があると思うんですよ。ちゃんと設計すれば、野球は地方創生のキラーコンテンツになる」

そして、彼の構想はさらに先を見ている。

「野球で地域の循環ができたら、そこからサッカーとか、ラグビーとか、アートとか、いろんな文化に展開できるはずなんですよ。最初の入り口が野球で、最終的には日本の地域そのものを、もっと面白くできる」

野球を通して、日本そのものの構造を組み替えていく——壮大な絵だが、彼のなかでは無理筋ではない。むしろ、自分が9年間世界を歩いてきたからこそ、見えている地続きの絵なのである。

海外の街路を歩く山内さん

「自分の功績だ」と誇るやつには、なりたくない。

ここまで読むと、山内さんは野心満々の起業家のように見えるかもしれない。だが、彼が一貫して大切にしているのは、むしろその逆の姿勢だ。

「もし将来このエコシステムが回り始めたとして、それを『自分の功績だ』って誇るような人間にだけは、なりたくないんですよ。それ、めちゃくちゃダサいじゃないですか」

エコシステムは、一人では作れない。彼自身、それを身体で理解している。

「最初は自分でやらないといけない部分もあるんです。でも、ある段階からは、周りの人の力やピースをフル活用して、持ちつ持たれつの関係を一緒に築いていく。そのうえで、僕がだんだん全体を整えていくっていうのが、いちばん持続可能なやり方だと思っていて」

彼が好む比喩は、ウイルス感染とオセロだ。

「『なるほど、それ面白いやん』って人に種のように渡していくと、それが少しずつ感染していって、どこかで一気にオセロみたいにひっくり返る瞬間がくる。そういう広がり方が、いちばん健全だと思うんです」

中央集権ではなく、フラクタルな増殖。自分が全体の頂点に立つのではなく、自分の構想をたくさんの人のなかに分散させ、それぞれの場所で勝手に発酵させていく。彼が描いているのは、そういう種類のリーダーシップなのだ。

「だから僕、いま意識してやっているのは、自分の言葉をちゃんと言語化することと、それをまっすぐ人に伝えることなんです。営業の現場に1ヶ月間身を置いて日々鍛錬しているのも、そのためで。一方的に思いをぶつけるだけじゃなくて、相手の話をちゃんと聞いて、相手の文脈に翻訳して伝える、そういう体力をつけていきたい」

世界を漂流してきた青年が、いま身につけようとしているのは、「伝える力」である。

2028年に向けて、いま、種をまいている。

エコシステム本体の本格スタートは、来年から再来年——彼の頭のなかでは、2028年が一つの目標として置かれている。それまでに、種をまける場所には、できる限りまいておきたい。

今年の試験的な動きとしては、すでに具体的な日程が動いている。日本から海外へ送り出すイベントと、海外を日本へ迎え入れるイベントの両方を、夏と秋に分けて実施する予定だ。ポーランドとの関係を起点に、「送り出す」と「受け入れる」の両方のロールモデルを、まず自分で実装してみせる。

「いきなり大きく始めるより、小さく回してみて、ちゃんと回ることを確認しながらスケールさせていくほうが、結局いちばん早いと思うんですよ」

そして、もう一つの種が、いま彼の手元で形になりつつある「本」だ。

「自分のことをこうやって毎回ゼロから話すのって、けっこうエネルギーがいるんですよね。自己紹介代わりに、自分の人生をまとめた本があったらいいなって思ってたら、出版したいって言ってくださる方が現れて。100ページくらいでスムーズに読める本を、いま編集者の方たちと一緒に作っているところなんです」

本人いわく、「自己紹介代わりの本」。読者がその本を読み、彼の人生のラインを掴んでくれた状態で、もう一歩踏み込んだビジョンを聞いてもらえれば——という、伝達の効率を考えた一冊である。同時にそれは、これからエコシステムを一緒に作る仲間を見つけるための、一種のラブレターでもあるだろう。

グラウンドに整列した野球チームの集合写真

「なんで、みんなやらないんだろう」

取材を通じて、山内さんが何度も口にしたフレーズがある。

「なんでみんなやらないんだろう、って、純粋に思っちゃうんですよ」

学生をやりながらプロを目指せる場所がないのも、京都の空き家が活用されていないのも、独立リーグにビジネスセンスが入っていないのも、海外の選手・指導者が日本でプレーしたい・指導したいと思っているのに受け皿がないのも——ぜんぶ、彼にとっては「なんでやらないんだろう」案件なのである。

そして、その「なんで」に答えを書きにいくのが、山内さん自身だ。

「もうね、できる気しかしてないんですよ。絶対できるやろ、って。必要だし、求められてる。それは肌感覚として、はっきり感じてるんです」

彼が3カ国の海外と日本の独立リーグで見てきた景色、ポーランドの代表者の熱、宮崎での朝、チェコ代表のユニフォーム、そして「俺はお前をリスペクトしてる」と言ってくれた敵将の声——。

それらの一つひとつが、いま京都という場所に集約されようとしている。

「最終的には、日本そのものが面白くなる。野球を入り口に、地域も、子どもたちも、海外との関係も、ぜんぶ少しずつ循環し始める。僕一人では作れないんで、仲間を集めながら、ちゃんとした適切なペースで、適切にやっていきたい」

急がない。けれど、止まらない。

世界を9年間歩いた青年が、いま京都の地面にしゃがみこんで、小さな種を植えようとしている。その種が芽を出し、葉を広げ、隣の畑にも飛んでいく頃には、日本の野球文化は、もう少し風通しのよい顔をしているかもしれない。

「楽しんでやる」という、当たり前のはずだったその一言を、いま改めて、当たり前にしていくために——。山内さんの挑戦は、ここから始まる。

室内で笑顔を見せる野球チームの仲間たちとの集合写真

書籍:「地球の裏でマウンドに立つ」はこちらから

https://for-good.net/project/1003581

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【第3回】「障がいのある人は、組織の“触媒(カタリスト)”になる」――能力主義の次の風景へ。 https://chiehiro.com/idegutisan3/ Tue, 19 May 2026 14:39:22 +0000 https://chiehiro.com/?p=2260

法定雇用率という「コスト」か、社会貢献という「美談」か。長くこの二項対立で語られてきた障がい者雇用に、「組織の触媒(カタリスト)」という第三の視点を。全3回の最終回。]]>

障がい者雇用は「コスト」か「美談」か――新しい社会の実装に向けて

障がい者雇用の話になると、議論はだいたい二つに割れる。

ひとつは「コスト」の話。法定雇用率2.6%という義務、達成できなければ徴収される納付金、消化試合のように設けられる特例子会社。もうひとつは「美談」の話。社会貢献として障がいのある方を雇い、企業の評判が高まるという物語。

コストか、美談か。日本の障がい者雇用は、長くこの二項対立の中で語られてきた。

福岡で社会福祉士として就労支援の現場に立つ井手口誠さんは、この二項対立そのものを退ける。「障がいのある人は、組織の触媒になる」と井手口さんは言う。化学反応における触媒のように、その人がい続けることで、周囲の組織がじわりと変わっていく――そういう役割の話である。

これは、コストでも美談でもない、第三の風景だ。

対話の中で生まれた、ひとつの言葉——障がい者雇用を「触媒」と捉え直す

「触媒」という言葉が井手口さんの口から出たのは、5時間に及んだ取材の終盤のことでした。

障がい者雇用の話題から、AI時代に人間の仕事はどう変わるか、という話題に流れていく中で、ふと井手口さんがこう言ったのです。

「障がいのある人って、組織にとっての触媒になり得るんじゃないかと思っていて」

井手口さんは続けます。

「触媒って、自分自身は変化しないんだけど、周りの反応を促進するじゃないですか。組織の中に障がいのある人がい続けることで、周りが変わっていく。そういう存在になり得るんじゃないかな、って」

これまで井手口さんが考えてきた「障がい者雇用」の文脈は、企業の利益に貢献するか・しないか、という生産性の議論でした。多くの先進的な企業が、障がい者雇用を「コスト」から「戦力」へと位置づけ直そうとしている動きも知っています。

けれど、井手口さんが取材中に組み上げたのは、それとはまた別の絵でした。

「個人としての生産性ではなくて、その人が組織にいることで、周りの生産性や、ハッピーや、活性化が引き出される。そういう価値です」

対話の中でその場で立ち上がってきたこの構想が、井手口さんの今後の事業構想の核にもなりつつあります。

「居続けることで、周りが変わる」——触媒とは何を指すのか

触媒という比喩を、もう少し具体的に解きほぐしてみましょう。

井手口さんが繰り返し語ったのは、「居続けることで、周りが変わる」というフレーズです。

「これまでは、障がいのある人がそこにいることで、化学反応を起こす前に、周りが先に壊れちゃってたんですよ。負担になる、効率が落ちる、って言われて、結局その人がいられなくなる」

井手口さんが本当に作りたいのは、その人が「居続けられる」仕組みです。

「居続けることができる仕組みを作れたら、僕は周りが変われると思うんです」

井手口さんが思い浮かべているのは、たとえばこんな場面です。小学校の教室に、知的障がいのある同級生がいたとします。子どもたちは、大人のように排除しません。むしろ、当たり前のように手伝いに行く。喧嘩することもある。けれど、関わることそのものを止めようとはしない。

「子どもは、ちゃんとぶつかり合っているんですよ。でも大人は、避けるんです。避けるという行為そのものが、関係を壊している。それに気づいていない」

組織の中で障がいのある人と「ぶつかり合う」ためには、組織の側に余裕が必要です。時間的な余裕、人員的な余裕、そして何より、人を見るまなざしの余裕。井手口さんが第2回で語ったDXとAIの取り組みは、すべてこの余裕を生み出すための前提条件だと位置づけられています。

「余裕がない組織に、触媒は入れられないんですよ。余裕を作ることが、まず先なんです」

机を挟んで向き合い対話する二人のイラスト

AI時代に、何が「人間にしかできない」か

井手口さんが触媒という発想に辿り着いた背景には、AI時代の労働観があります。

ホワイトカラーの定型業務は、これからAIに置き換えられていく――井手口さんはそう見ています。書類仕事、データ集計、定型的な分析。それらは人間がやるよりもAIがやるほうが速く、正確で、安い。これは福祉の現場でも同じです。

では、人間にしかできない仕事とは何か。

「人と人との関わりの中でしか得られない、一次情報みたいなもの。あとは、なんていうか、その場の空気を変えるような、人間臭い力」

ここに、触媒の発想が結びついてきます。

従来の労働観では、障がいのある人は「定型業務をどれだけこなせるか」で評価されてきました。だから生産性の議論になり、コストの話になっていた。けれどAIが定型業務を引き受ける時代には、そもそも「定型業務をこなす能力」の価値が下がっていきます。

「これからは、額に汗をかくとか、体を使った仕事とか、人間しかできない関わり方とか――そういうものの価値が、むしろ上がっていくと思うんですよ」

井手口さんは、海外で「ブルーカラー・ビリオネア」が生まれているという話を引きながら、価値の重心が移動しつつあることを指摘します。同じことが、組織内の人間の役割にも起きる――井手口さんはそう見ています。

均質な労働力としての「人材」が値下がりする一方で、組織にハッとした気づきをもたらす「触媒」の価値は上がっていく。井手口さんの構想は、AI時代の労働観の転換と、ぴたりと噛み合っています。

優しい組織は、結果として伸びる

触媒構想は、慈善や倫理の話ではありません。井手口さんは、これを企業経営の話として語ります。

「触媒のいる組織は、結果として伸びると思うんですよ」

井手口さん自身、人材業界で長くキャリアを積んできた人物の言葉を引きながら、こう言います。「投資する価値のある会社って、エゴで動いていないんですよ。利他的なんです」

売上を最優先に掲げず、「誰かのために何かをして、その結果として対価が返ってくる」という発想で動いている組織。社員に対しても「この会社で成長すること」だけでなく「外に出ても通用する人材になる」ことを意識して育てている組織。井手口さんが見てきた中で「伸びる組織」には、こうした共通項があったと言います。

「人としての権利を守る、という意識が、組織の中に芽生えていったら――その組織は絶対伸びるんですよ」

ここで再び、グローバル定義の中核にある「人権」というキーワードが戻ってきます。第1回で語られた「日本人は人権をインストールされていない」という問題意識は、第3回では企業組織の話に接続されます。

障がいのある人が触媒として組織に入ることで、組織の中に「人権」という意識が芽生え始める。それは多様性研修や社内ポスターでは生まれない、もっと根源的な変化です。

「あの人と、どう一緒に働くか――それを考えざるを得なくなった時に、組織は初めて『人を見る』ようになる。そこから組織が変わるんです」

夕暮れの川沿いのまちを歩く人々のイラスト

カタリスト――福祉技術を、中小企業へ

井手口さんが構想しているのは、この触媒構想を「事業」として立ち上げることです。

具体的にはこういう設計です。中小企業に対して、障がいのある方の雇用を支援するサービスを提供する。ただし、それは従来型の人材紹介ではなく、雇用する企業側の組織風土や業務設計まで含めて伴走する。福祉の専門家(ソーシャルワーカー)が、企業の中に入って、障がいのある人と組織の「化学反応」が起きる土壌を整える――そういうサービスです。

「人材派遣じゃなくて、人材育成と定着まで含めた仕事ですね。最初のところだけ、ソーシャルワークの専門家がきちんと入っていって、企業のやっていることと、その人の特性を、うまく折り合いつけていく」

井手口さんの中では、これは第2回で語った「補助金に頼らないビジネスモデル」の具体化でもあります。福祉の技術を、中小企業向けの正規のサービスとして売る。対価をきちんと得て、持続可能に回していく。これによって、ソーシャルワークの技術は「弱者ビジネス」から、もっと広い社会の経済活動の中に組み込まれていきます。

「中小企業さんとかにとって、面白いきっかけになるはずなんですよ。新しい発想が生まれるとか、組織が一段強くなるとか」

若い世代を、担い手として迎える

もうひとつ、井手口さんが力を込めて語るのが、若い世代の参加です。

「この事業は、僕みたいなおじさんがやると、どうしても『胡散臭く』なってしまうんですよ」

少し笑いながら、井手口さんはそう言います。

「学生か、社会人2、3年目くらいの、まだキラキラしてる時期の若い人にやってほしい。社会に対して『何かいいことがしたい』って思っている人が、自分のスキルとして触媒の仕事を覚えていく――そういう設計のほうが、絶対うまく回ります」

井手口さん自身は、その若い担い手たちの「カバン持ち」だった経験から、相談相手・伴走者の役回りに徹したい、と言います。20代の頃、市民活動の世界に飛び込み、師匠の隣で多くを学んだ井手口さんが、今度は次の世代にそれを返していく――そういう循環です。

「僕がカバン持ちをしてきた経験を、AIの力も借りながら、若い人たちに渡していきたい」

第2回で触れた「ソーシャルワークのデータベース化」「実践知の共有財産化」という構想は、ここで人材育成の文脈と接続します。ベテランの暗黙知を、若い担い手が利用できる形に変換する。井手口さんは、これを思想の話ではなく、具体的な仕組みづくりの話として語ります。

オフィスで働く人とデジタルネットワークをつなぐイラスト

ソーシャルワークを、社会に実装する

ここまでの3回を、井手口さん自身の言葉でまとめれば、こうなるでしょう。

「ソーシャルワークを、社会の中にきちんと実装したいんですよ」

世界標準の「グローバル定義」に書かれているソーシャルワークは、社会変革・社会開発・社会的結束・エンパワメントと解放を含む、広大な射程の専門職であり学問でした。

ところが日本では、それが「制度に基づくサービスの相談員」へと矮小化され、補助金で回るビジネスへと固定されてきた。井手口さんが「消費される福祉」と呼んだのは、この矮小化の風景です(第1回)。

矮小化を解除する手段として、井手口さんはAIとDXを使って現場に余裕を作り、ソーシャルワークを健常者にも届くサービスへと拡張しようとしています(第2回)。そして、その拡張の先に「触媒」という新しい役割概念を据え、組織と社会のあり方そのものを変えに行こうとしている(第3回)。

ひとつひとつは別々の話に見えるかもしれません。けれど、井手口さんの中では、これらはすべて一本の線でつながっています。

「ソーシャルワークの土台にあるのは、人と環境の相互作用なんですよ。人が、人だけじゃなくて、人と環境の中で生きている――その全体に働きかけるのが、ソーシャルワークなんです」

人と環境の相互作用。それは、AIと利用者と相談員が三人で囲むテーブルにも、障がいのある人を中心に変わっていく組織にも、補助金に頼らない事業の設計図にも、すべて貫かれている視点です。

桜の下に多様な人々が集うまちのイラスト

最後に、ひとつのフレーズ

取材中、井手口さんが何度も口にした言葉があります。

「みんながハッピーになる仕組みを作りたい」

素朴に聞こえるかもしれません。けれど、井手口さんがこの言葉に込めているのは、「弱者を救う」という一方向の善意ではなく、利用者も、支援者も、企業も、地域も、それぞれの立ち位置から少しずつ豊かになっていく――そういう全方位的な構想です。

ソーシャルワークのグローバル定義の中核に「人々のエンパワメントと解放を促進する」という一節があります。井手口さんが描いている風景は、この「人々」の範囲を、これまでの日本の福祉が想定してきたよりも、ずっと広くとろうとしているように見えます。

障がいのある人も、ない人も。福祉の現場にいる人も、いない人も。元気な人も、いまは元気でない人も。

みんなが、もう少しハッピーになる仕組みを、福祉の技術を使って設計し直したい――。

井手口誠さんの挑戦は、ソーシャルワーカーひとりの仕事の話ではない。日本社会が長らく見ないふりをしてきた空白を埋めに行く、もっと大きな試みである。

(第4回、最終回に続く)

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リーダーを徹底支援。全体を俯瞰する「軍師」的なポジションで、采配を振るう。 https://chiehiro.com/mutousan/ Tue, 19 May 2026 14:05:24 +0000 https://chiehiro.com/?p=2255

学級委員、学生プロジェクトの取りまとめ、3度のカンボジア。数々の現場を経てきた21歳の武藤遥香さんが、「リーダー」ではなく「軍師」というポジションを自覚的に選び取っている理由を聞きました。]]>

来年4月、福岡大学を卒業し、社会人になる武藤遥香さん(21)。学級委員に立候補し、学生プロジェクトの取りまとめ役を担い、海外の貧困問題にも飛び込んできた彼女ですが、大学生に入り「リーダーになりたい」とは一度も思ったことがないそうです。

代わりに彼女が選んできたのは、優秀なリーダーの隣に立ち、その人の支えになれるような役割──「軍師」と呼ぶべきポジション。トップが脚光を浴びるこの時代に、彼女がそこを自覚的に選び取っているのは、なぜなのか。21歳の現在地から、その思考の根を辿りました。

できるまでやる。それが幼稚園からの気質でした。

「跳び箱、縄跳び、鉄棒、一輪車。なんでも泣きながら、もう、どうせできんしとか言いながら、できるまでやるみたいな子でした」と武藤さん。「幼稚園からそうだった」とのこと。やればできる。練習すればできる──そのシンプルな手応えが、原体験として積み上がっていきました。

「乗り越えられなかったこと、あんまりないんですよね」

努力が苦になりませんというより、できないまま放置することのほうが彼女には苦痛。この気質は、後年の活躍ぶりに、そのまま繋がっていきます。

学級委員。「誰もが居心地のいいクラス」を。

中学では3年間、学級委員を務めました。「どんな子でも、少しでも居心地がいいクラスづくりをしていました」と振り返ります 。

新しい環境やクラスの輪に入ることに対して、少し遠慮がちになっている子や、周囲となじむのに時間がかかっている子 ──。武藤さんは自ら同じ班になり 、無理のない居心地の良い雰囲気を作っていきました 。まずは、自分が一番に仲良くなりに行く 。誰にも頼まれずに、それを自分の役割として自然に引き受けていました 。

「クラスが好きだったから、来てほしかったんです」。責任感、ではない。「やりたかったから、行動した」と。

もっとも、中学生時代がすべて順風満帆だったわけではありません。ある時期、学校が安心できる場所ではなくなった瞬間もありました。それでも彼女は、嫌な現実から目を背けるよりも、目の前にあるべき日常を回し続けることを選びました。これが、その後の彼女のすべての選択に通じる、最初のフォームだったかも知れません。

1日10時間、苦にならない勉強。

高校は福岡で人気の学校。志望理由を聞くと、即答でした。「自由な雰囲気が好きだったんです」

受験期、平日10時間、休日12時間の勉強を「苦じゃなかった」と言い切ります。彼女が得意だったのが数学。

「いろんな解き方があるのに、答えが1個になるのが、面白くて」。答えがひとつに収束していく感覚。プロセスの異なる複数の道筋が、最後に一つの正解に着地する設計。武藤さんが惹かれていたのは、「組織を機能させる」という仕事の構造に、どこか似ている気がする。複数の人、複数の動き、複数の都合を、ひとつの目的に向けて束ねていく仕事──彼女が、後にのめり込んでいくのは、まさにそれだった。

「私、夢を諦めてる人たちに届けたい」。1200人の前で歌った。

武藤さんには、もう一つ、意外な顔があります。「歌う人」です。始まりは、コロナ禍。高校の入学式が延期になった春、彼女はギターを手に取りました。教室の奥の端っこで、一人で歌の練習をしていました。

「先輩が聞いていて。あれ、武藤さん、歌もいけるくね?って言われて(笑)」

誘われるままにカラオケに行ったら、その場で誰よりも高得点を出した。文化祭のオーディションに通り、初めての本格的なステージで、1,200人の前で歌いました。

受験期にはSNSで弾き語りも。1〜2か月で5,000人にフォローされました。ライブには延べ4,000人が訪れたこともあります。

ここで彼女がやっていたのは、ただ歌うことだけではありませんでした。配信中、コメント欄に集まる悩み相談に、武藤さんはひたすら答え続けていたのです。受験のこと、進学のこと、恋愛のこと。

「私は夢を諦めてる人たちに届けたいって思って。それで歌っていたんです」

実は、小学生の時、教えるべき立場の教師から「音痴」と言われたという経験を持つ武藤さん。そこで、「歌うことを諦めた」という時期がありました。しかし、もう一度マイクを握ることができた。その経験が、誰かの「諦めかけている自分」に届くと信じ、歌っていたそうです。根底に流れている“利他の根”は、この頃すでに、はっきりと形造られています。

ステージでギターを手にマイクの前で歌う武藤さん

大学で出会った、企業と組んで社会課題を解く授業。

本命は国際協力でした。小学校の頃から、貧困、戦争、保護犬、障がいのある人──そういうテーマの本を、図書館で繰り返し借りていました。英語を使って、現地で誰かの助けになりたい。そして、福岡大学の経済学部へ。

「めっちゃ楽しいです」

彼女がそう言い切るのには、理由があります。入学早々、ある授業に出会いました。企業と学生がチームを組み、企業や社会の課題を一緒に解いていく実践型のカリキュラムです。武藤さんは、4年間にわたって、別々のチーム、別々の現場で、この授業に身を投じることになります。

1年目のプロジェクトは、不登校の子どもたちが通う場所をサポートするNPOでした。

論理的思考が突き抜けて高く、行動力抜群の同級生。武藤さんはその隣で、必要に応じた支援に全力で取り組みました。

「同級生が“これやりたい”って言ったら、私は“じゃあこれ準備しとくね”といった関係でした。今も一緒に活動してます」

この一年が、武藤さんが自分のポジションを見つけた一年だった。リーダーがやりたいと言ったことを、形にできるように動く。リーダーが見落としていることを、実践できるように。それが、自分が一番輝ける場所だと、彼女は気づいたそうです。2年目は、九州に地盤を構えるあるものづくり企業。

3年目はスケジュール管理、交通費管理、協賛金集めなど、事務局的なポジションに。組織が機能するために不可欠な役回りで、的確に“縁の下の力持ち”を担った。脚光を浴びるリーダー、組織を円滑に回す軍師役。後者がいなければ、リーダーの理想は届かない。誰に教わるでもなく、武藤さんは現場で磨きあげ、補佐としての能力を実装していったように感じます。

海外へ。貧困と向き合う、3度のカンボジア。

授業の合間、彼女はもう一つ、別の現場にも飛び込んでいました。

海外。それも、貧困の現場です。大学在学中、武藤さんはカンボジアに3度渡っています。最初は2週間、二度目は短期で、そして三度目は1か月、ある民間プログラムに参加して、現地のスラム街に通い続けました。

聞き取りの内容は、想像を絶する。家がない家庭、一つ屋根の下に何十人もが暮らす家庭、子どもを18人産んだ女性、夫を3人亡くした女性。日本の常識を一度すべて手放さなければ、対話そのものが成立しない世界でした。

そのなかで、武藤さんは現地で実現可能なビジネスプランを、自分なりに練り上げていきます。彼女が目をつけたのは、石鹸でした。

「あっちでは、食器を洗うのも、体を洗うのも、洗濯も、全部同じ石鹸でやっていて。それで体がかゆいとか、夜中に痛いって人がいたんです」

ならば、現地の人が自分たちで作れる石鹸を、自分たちで作って売れる仕組みにする。設備投資もほとんどいらない。目の前の課題を、目の前の手段で解決する。地に足のついたプランでした。

現地の子どもたちと交流する武藤さん

違和感を、飲み込まなかった。

数々の活動を経験するなかで、武藤さんは幾度か、違和感を覚える瞬間に出会っています。

学生だから。若いから。これも勉強だから。あなたたちのためになるから。──そう言われて、本来やるべきことから少しずつ逸れていく現場。説明されていなかった役割を、その場の空気で背負わされる現場。組織の在り方として、どうにも筋が通らないと感じる現場。

「それ違う」

21歳の彼女は、それを飲み込みませんでした。大人たちの言葉に言いくるめられそうになりながらも、仲間と一緒に、自分たちの考えをきちんと貫こうとしました。声を上げ、問い直し、ときには現場でぶつかったという。

そうした経験が、彼女の判断軸を鍛えていった。組織の善し悪しを、肩書や規模ではなく、実際にそこで何が起きているかで見る目。きれいな建前と、その裏側の構造を、両方とも見据える目。

「困っている人がわかりやすかっただけだったかもしれない」。

3度目のカンボジアを終えて、彼女のなかで、新しい問いが立ち上がりました。

「私は社会課題解決をやりたいって、漠然と思っていたんです。でも、貧困問題から入ったのって、結局、困っている人がわかりやすかったからじゃないか、って」

ボロボロの服。痩せた体。目に見えて困っている人。それは、社会課題の入り口としてはたしかに分かりやすい。しかし、社会課題はそれだけではありません。もっと多様で、もっと多層で、もっと表に見えにくいものがいくらでもあります。

ならば、自分がすべての分野を一人で解決できるわけがない。

「今は、社会課題解決に関わりたいと思っている人を支えられるような人材になる、自分には一番目指す方向なんじゃないかと考えています」

貧困を解決する人ではなく、社会課題に向き合う人を、補佐する人。これが、3度の海外経験を通じて、武藤さんがたどり着いた結論です。

実際に、動き出しているプロジェクトもあります。ケニアへのスタディキャンプです。

企画も資金調達も、ほぼ0から自分たちで立ち上げる。参加者を募り、来年3月の渡航を目指しています。必要な経費などから逆算して、必要な売上を出す仕組みまで、自分たちで設計するという。

経営の知識を、現場で動かしながら学ぶ。彼女は、軍師役として磨かれてきた自分の刀を、いまも一本一本、増やしている最中です。

「私の周りにいると、自己肯定感が上がるらしいんです」。

取材中、武藤さんはこんなことを口にして、笑いました。

「みんな前は低かったんだけど、はるかちゃんと出会ったら高くなっちゃったって言われるんですよ」

彼女自身が、なぜ自分の自己肯定感が高いのか、本人もよく分からないと言います。けれど、21歳の段階で、自分の特性を見極め、「圧倒的なリーダーの隣で、補佐役に徹したい」と覚悟を決めている──そのことと、無関係ではないように思います。

軍師役として、トップの動きやすい環境を整える。

今の時代、リーダーシップの語られ方は、どうしても「前に出る人」に偏りがち。しかし、組織が本当に動くとき、その裏側には必ず、的確に組織を動かしている誰かがいます。リーダーの理想を、現実の手触りに落とし込んでいく誰かがいます。

その誰かに、21歳ですでに、自覚的になっている武藤さん。この先で、どんな組織を、どんな未来を動かしていくのか。その軌跡が、これからとても楽しみな取材になりました。

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【第2回】「AIは、脳の義足になる」――社会福祉士が現場に持ち込んだ、新しい武器 https://chiehiro.com/ideguchi2/ Tue, 12 May 2026 18:37:00 +0000 https://chiehiro.com/?p=2244

利用者に向き合う時間より、書類を書いている時間のほうが長い。福岡の就労継続支援B型事業所で働く社会福祉士・井手口誠さんが、AI・DX・経営の言葉でこの壁に挑む。全3回の第2回。]]>

――武器としてのテクノロジーと経営

善意だけでは、人は救えない。

これは、福祉の現場に長く立ち会ってきた者であれば、誰もが一度は突き当たる壁である。優しさも、覚悟も、想いも、現場には溢れている。それでも人は疲弊し、辞めていく。利用者に向き合う時間より、書類を書いている時間のほうが長い。あればいい書類が、あればいい支援を生んでしまう。

福岡の就労継続支援B型事業所で生活相談員を務める社会福祉士・井手口誠さんは、この壁にテクノロジーと経営の言葉で挑もうとしている。AI、DX、ビジネスモデル――福祉の文脈ではどこか馴染みの薄いこれらの言葉が、井手口さんの口からは自然に飛び出してくる。

「AIは、思考の義足なんですよ」

井手口さんと話していて、もっとも印象に残ったフレーズのひとつがこれでした。

歩く力を失った人が、再び歩けるようになるための器具。井手口さんはAIをそう位置づけています。

「メンタルが落ちている時って、思考力も一緒に落ちるんです。情報を集めるのも、判断するのも、決めるのも、全部しんどくなる。そこをAIが助けてくれるんです」

ソーシャルワークには「意思決定支援」と呼ばれる技法があります。認知症の方や障害のある方が、自分の意思を表明し、選び、決めていくプロセス全体に伴走する支援です。意思決定とは、決断という一点ではなく、情報を取る・価値判断をする・選ぶ、という連続したプロセス――これが意思決定支援の前提です。

井手口さんの目から見ると、このプロセスのほぼ全段階で、AIは強力な伴走者になり得ると言います。

「最初のインプットさえちゃんとできれば、その後の整理や比較は、合理的に進むんですよ」

人と会うのがしんどい。そういう日でも、スマートフォン一台あればAIには相談できる。ハードルの低さも、井手口さんがAIを評価する理由のひとつです。

ときには「AIと3人で相談する」こともある。

たとえば相談業務の一環として、AIを実践的に使うケース。利用者と井手口さんが向かい合う。テーブルにはもう一つ、画面が置いてある。利用者は、自分の悩みや疑問を、井手口さんではなく、まずAIに投げかける。

「これってどうなんですか、ってAIに質問するんですよ。僕に質問するんじゃなくて」

AIが回答を返す。井手口さんはそれを横で聞きながら、専門家として判断します。「あ、これは合ってますね」「ここは少し違いますね」「これはAIの嘘だから、信じすぎないでください」――。

「彼らが安心してAIと対話できる環境を作るのが、僕の役割なんです。AIが言うことのうち、どれが正しくて、どれが嘘か――それを学べる場にしたい。だって、僕がいつまでも横にいるわけじゃないですから」

もちろん、毎回の相談業務に用いるわけではない。場合により、使い分ける。

人生は長い。井手口さんが利用者と関われるのは、その長い時間のごく一部にすぎない。だとすれば、自分が答えを与え続けるよりも、利用者自身が情報を取り、検討し、決めていく作法を身につけてもらったほうが、よほど価値がある――そういう設計を模索する。

「セルフカウンセリングのやり方を学んでもらう感じですね。それと、AIの答えに対する『当たり外れの勘』を磨いていく」

意思決定支援とAIの組み合わせについて、これほど具体的に語る現場の声はそう多くありません。バズワードとしての「福祉×AI」ではなく、地に足のついた技法として組み込まれたAIの姿が、ここにあります。

室内で向き合って対話する福祉従事者と利用者のイラスト

「あればいい書類」が現場を食い尽くす

意思決定支援におけるAIの活用と並んで、井手口さんが取り組んでいるのが、事業所内の業務DXです。

「福祉の現場って、本当に書類仕事が多すぎるんですよ。これ、いるのかな、っていうぐらい」

制度に基づいた支援を提供する事業所には、補助金を受け取るために提出すべき書類が大量に存在します。チェックリスト、支援記録、計画書、報告書――。本来は支援の質を担保するために設計された記録が、いつの間にか「あればいい書類」に変質していく、と井手口さんは言います。

「あればいい書類が、どんどん増えていくんですよ。利用者さんと向き合う時間がどんどん削られて、記録を書くために働いているような状態になる」

補助金は書類で支払われます。書類さえ揃っていれば、支援の中身が薄くても事業所は回る。逆に、書類が揃わなければ、いくら支援が手厚くても評価されない。この構造そのものが、現場を「あればいい書類」へと押し流していきます。

井手口さんが事業所のDX推進担当として手を入れているのは、まさにこの部分です。

「あればいい書類は、本当に『あればいい』ものとして自動化してしまう。そうじゃないもの――利用者さんと向き合う中で得た一次情報を、ちゃんと記録として残せる仕組みに変えていきたいんです」

音声入力、AIによる要約、定型書類の自動生成。要素ごとに見ればどれもありふれた技術ですが、それらを福祉の業務フローに合わせて統合していくと、書類業務の時間は劇的に圧縮されると言います。

「事務作業に当てている時間が、3分の1から4分の1にはなる。たぶん、もっと減らせます」

時間が生まれる。そこで初めて、現場には「学ぶ余裕」が生まれます。後輩に教える時間が生まれる。新しい技法を試す余裕が生まれる。利用者と、もう一杯お茶を飲む時間が生まれる。井手口さんがDXに取り組む理由は、効率化そのものではなく、その先に作りたい「余白」のためです。

ノートパソコンでAIを活用する福祉職員のイラスト

ソーシャルアクションは、技法のひとつである

ここで井手口さんは、ソーシャルワークの「グローバル定義」に書かれた、もうひとつの言葉を持ち出します。社会変革――。

「ソーシャルワークの中に、ソーシャルアクションっていう技法があるんですよ。社会を変える、ということ自体が、ちゃんと支援の技法のひとつとして定義されているんです」

社会を変えることが、福祉の本業に含まれる。これは、日本のソーシャルワーカーの多くが意識せずに働いている領域だ、と井手口さんは指摘します。現場で目の前の利用者を支援する。それは大切な仕事ですが、それだけがソーシャルワークではない。制度が歪んでいるのなら制度を変えに行く、社会の認識が歪んでいるなら認識を変えに行く――これもまた、ソーシャルワークの一部だというのです。

「個人を支援していると、どうしても組織の中のことしか見えなくなるんですよ。書類を書くことに精一杯で、社会のことなんて考える余裕もない。でも本当は、その状態こそが社会変革の対象なんです」

ソーシャルアクションを発動するには、現場に余裕がいる。余裕を作るにはDXがいる。ここで井手口さんの取り組みは、ぐるりと一周してつながります。

DXは目的ではない。社会変革を発動するための、必要条件にすぎない。井手口さんは何度もこう言います。

「DXが必要十分条件だとは思っていません。必要条件です。これがないと、何も入らない。学びも、議論も、社会変革も、全部入らないんです」

「補助金に頼るビジネスは、もう終わりにしたい」

井手口さんがもうひとつ強く語るのが、福祉のビジネスモデルそのものへの問題意識です。

「補助金に頼るビジネスは、もう終わりにしたいんですよ」

これは、補助金そのものへの否定ではありません。補助金で立ち上げ、補助金で回し続け、補助金が来なくなったら立ち行かなくなる――そういう構造への違和感です。

「最初の立ち上げに補助金が入るのは、別にいい。問題は、その後10年計画を立てる時に、ずっと補助金ありきの計画しか描けないこと。それじゃ絶対、10年後に失敗してしまう」

補助金は、福祉の対象を「弱者」に固定します。補助金の名目はだいたい「困っている人を助けるため」と書かれているからです。すると、福祉の事業は構造的に「弱者ビジネス」になる。

井手口さんの提案は、ここから先です。

「ソーシャルワークの技術って、本来はもっと広く使えるんですよ。障害のある方や高齢の方だけじゃなくて、健常者と呼ばれる人たちにとっても、自分の人生をよりよく生きるための技術として有用なんです」

意思決定支援、対話のファシリテーション、人と環境の相互作用を読み解くアセスメント、エンパワメントを促す関わり方――。これらは、誰にとっても、人生のどこかで役立つ技術です。

「だから、ちゃんと売り物にして、対価を得て提供できるサービスにしたい。それが本当のゴールだと思っています」

ソーシャルワークを、福祉の技術を、「誰もが使えるサービス」にアップデートする。井手口さんの構想は、福祉業界の内輪話に閉じない、もっと大きな射程を持っています。

高齢者を支援する介護スタッフとデジタル技術のイラスト

善意を、システムに変える

善意だけでは、人は救えない。

だからといって、善意を否定するわけではありません。井手口さんが現場で出会ってきた福祉職の人たちは、本当に優しくて、本当に真面目な人ばかりだったと言います。問題は、その優しさが、消費されてしまっていることです。

「優しさは、システムにしないとダメなんですよ」

ベテランのソーシャルワーカーが20年かけて積み上げた支援の知恵が、退職と同時に消えていく。優秀な相談員が一人で抱え込んだノウハウが、組織に共有されないまま埋もれていく。これらはすべて、善意がシステム化されていないがゆえに起きる損失です。

AIによる業務自動化は、書類仕事を減らすためだけの取り組みではありません。言語化されないまま消えていく現場の知を、データとして残し、共有し、次の世代に渡していくための、長い射程を持った仕事です。

「実践の暗黙知を、組織の共有財産にしたいんですよ。AIを使えば、それができるんです」

井手口さんが思い描いているのは、福祉現場の単なる効率化ではありません。優しさを、属人的な才能から、誰もが使えるインフラへとアップデートする――そういう仕事です。

テクノロジーは、「人間臭さ」のためにある

ここまで読むと、井手口さんがテクノロジー礼賛の人物に見えるかもしれません。けれど、井手口さんの主張はその逆です。

「AIにできないことを、人間がやればいいんですよ。書類なんて、AIのほうが絶対上手なんだから、もう全部任せてしまえばいい。その代わり、利用者さんと向き合う中で生まれた、一次情報の関わり方――そこは人間にしかできない」

ある医療現場で、視野検査をメタバース機器で代替する試みがあったといいます。それまで対面で何十分もかけていた検査が、機器を装着すれば数分で終わる。検査時間は短縮された。では、その分余った時間は何に使われたのか。

「患者さんに向き合う時間が、増えたらしいんですよ」

これだ、と井手口さんは言います。テクノロジーは、人間から仕事を奪うのではなく、人間が本来やるべき仕事に戻すための装置である。井手口さんが事業所のDXを進める動機は、ずっとこの一点に向いています。

「現場は、本当に一生懸命やっているんです。疲弊するほど真面目に。だからこそ、その時間と労力を、もっと意味のあるところに使えるようにしたい。AIに任せられるものは任せて、人間にしかできないことに、もっと時間を使ってほしいんです」

つながる、第3回へ

AIで時間を作り、ビジネスとして回るソーシャルワークを設計する。井手口さんの構想は、現場の業務改善から始まり、業界の構造改革にまで射程を伸ばしています。

そして井手口さんは、もう一歩先にも踏み込もうとしている。「障害のある人は、組織にとっての触媒になり得る」という、新しい役割概念です。これは障害者雇用を「コスト」と「美談」の二項対立から救出し、組織のあり方そのものを変える発想です。

第3回では、井手口さんがインタビューの最終盤で語った「触媒(カタリスト)」という構想と、若い世代を巻き込んだ未来への動きを掘り下げます。

(第3回に続く)

夕暮れのまちなみを歩く人々のイラスト

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【第1回】「まちづくりは、福祉と地続き」――社会福祉士でまちづくりのプロ・井手口誠さんが、20年越しに辿り着いた答えとは。 https://chiehiro.com/ideguchi1/ Thu, 07 May 2026 17:12:00 +0000 https://chiehiro.com/?p=2231

福祉は、つまずいた誰かのためのセーフティネット——その常識をソーシャルワークのグローバル定義がひっくり返す。まちづくりと福祉を往復してきた社会福祉士・井手口誠さんに聞く全3回の第1回。]]>

──消費される福祉を、書き換える

「福祉」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。

生活保護、介護施設、障がい者支援。多くの人にとって福祉とは、何かにつまずいた誰かのために用意されたセーフティネットである。元気に働き、自分の足で立っている自分には、いまのところ縁のない世界。そう感じている人は少なくないはずだ。

ところが、世界のソーシャルワーカーが共有している「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」を読むと、その常識がまるごとひっくり返る。

「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である」

弱った人を助ける仕事、とは書いていない。社会を変え、人々の結びつきを育て、人を解き放つ営み──そうグローバル定義は宣言している。

福岡で社会福祉士として働く井手口誠さんは、この定義に出会ったとき、自分がそれまで20年近く続けてきた市民活動・まちづくりの仕事が、すべて福祉だったのだと気づいたという。

井手口さんは現在、就労継続支援B型事業所の生活相談員として障がいのある方の働く現場に立ちながら、社内のDX推進担当も兼ねている。工学部電気工学科を卒業し、市民活動の世界からキャリアを始めた人物が、なぜ福祉に行き着き、いま「消費される福祉を書き換えたい」と語るのか。その軌跡をたどると、日本社会が長らく見ないふりをしてきた、いくつかの空白が浮かび上がってくる。

市民活動の現場に、なぜ障がいのある人はいなかったのか

井手口さんが市民活動の世界に飛び込んだのは、2000年代初頭、まだ大学生のころでした。

「ちょうどNPO法人制度ができたばかりの時期で、福岡市にも市民活動を支援するセンターが立ち上がったところでした。学生時代から、ボランティアやまちづくりの世界にどっぷりでしたね」

阪神・淡路大震災を契機に、ボランティアという行為を仕組み化しようという機運が高まり、1998年に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行されます。井手口さんが学生として活動の輪に加わったのは、その制度がようやく社会に根付き始めた頃でした。

ゴミ拾い、ホームレス支援、環境問題、子ども支援。学生らしい多分野のボランティアを経て、卒業後は市民活動支援センターの職員となり、福岡県内・佐賀・熊本など各地で住民参加のまちづくりや、自治協議会の地域計画策定支援に携わります。ワークショップを設計し、対話の場をファシリテートし、地域の課題解決を住民とともに進める──そういう仕事を、井手口さんは長年こなしてきました。

ところが、当時の自分を振り返ると、あるひとつの空白に気づくと言います。

「ワークショップにも対話の場にも、いろんな人が来てくれていました。でもいま思い返すと、そこに障がいのある方はいなかったんです。認知症の方も、いなかった」

参加できる人だけが参加していた。来られる人だけが「住民」だった。元気に動ける人たちのための場でしか、自分は動いてこなかった──そのことに、井手口さんは長らく気づいていませんでした。

「市民活動の現場で『社会の課題を解決しよう』と言っているのに、福祉の世界とはなぜか出会っていなかったんです。20代の自分には、まだそれが見えていませんでした」

市民活動とまちづくり。その世界で語られる「社会」と、福祉が向き合っている「社会」のあいだには、目に見えない断絶がありました。

2015年、まちづくりと福祉が「繋がった」

転機は2015年に訪れます。

この年、介護保険制度が大きく改正されました。膨らみ続ける介護給付費を持続可能にするため、要介護状態になる手前──いわゆる「予防」の段階に力点を移す方針が打ち出されたのです。各地域の包括支援センターには「生活支援コーディネーター」と呼ばれる役職が新設され、地域の元気な高齢者に居場所と役割を作り、住民同士の支え合いを組織化していくミッションが与えられました。

そして、生活支援コーディネーターたちに「住民参加のまちづくり」を教える研修講師として、井手口さんに白羽の矢が立ちます。

「そこで初めて、ああ、まちづくりと福祉ってつながるんだ、と気づいたんです。10年前のことですから、意外と最近の話です」

20年近くやってきた市民活動の仕事が、実は全部、福祉と呼ばれるべきものだった。子どもの支援も、災害支援ボランティアも、地域コミュニティの再生も、すべてグローバル定義に書かれた「社会的結束」と「社会開発」の実践だった。井手口さんはそこで初めて、自分が立っている地面の正体を知ります。

ただし、繋がったことを喜んでばかりはいられませんでした。研修の場で目にしたのは、制度設計の深刻な歪みだったからです。

「生活支援コーディネーターになる方々は、昨日まで病院でリハビリの仕事をしていた、というような方も少なくありません。それがある日、地域に出て住民の居場所を作ってくださいと言われる。研修では『まちづくりってこういうものですよ』と教えるんですが、現場に持続可能な仕組みを作るためのお金は、ついていない」

予算は生活支援コーディネーター1人分の人件費だけ。地域住民の活動を持続させる事業費はゼロ。マネジメントの専門家もいない。「制度疲弊を起こしているくらいの状態です。10年経った今も、ですよ」と井手口さんは言います。

まちづくりと福祉が制度上つながった、その瞬間に──現場では、つながりを支える土台が抜け落ちていた。井手口さんが「消費される福祉」と呼ぶ風景は、このあたりから輪郭を持ち始めます。

「まちづくり」と「福祉」を橋でつなぐイメージイラスト

「俺、人権って考えたことなかった」

井手口さんが社会福祉士の資格取得を本気で目指したのは、ある依頼がきっかけでした。

生活支援コーディネーターのひとりに社会福祉士の方がいて、井手口さんに「まちづくりの話を、ぜひ社会福祉士に向けて話してほしい」と打診されたのです。話す相手のことを知ろうと、軽い気持ちで社会福祉の勉強を始めた井手口さんは、そこで思いがけないものに出会います。

「勉強し始めたら、これ、今までやってきたことそのものだなと。学生時代の子どもボランティアも、災害支援も、コミュニティ支援も、ぜんぶ福祉だった。あらためてソーシャルワークというキーワードに出会って、自分の足元の理論がここにあったんだ、と腹落ちしました」

ところが、勉強を進めるうちに、もうひとつの発見が井手口さんを揺さぶります。

「社会福祉士の勉強を始めて、最初に思ったのが──俺、人権って考えたことなかったな、ということだったんです」

人が人として持っている権利。それを侵されないために、社会はどう振る舞うべきか。グローバル定義の中核には「社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理」が据えられています。ソーシャルワークはこの原理の上に立つ、と明言されている。

井手口さんは長年、地域の対話の場を作り、住民の声を引き出すファシリテーションを生業にしてきた人物です。それでも、人権という概念を真正面から考えたことがなかった。これは井手口さん個人の怠慢ではなく、日本社会が共有している空白だと、井手口さんは言います。

「日本人って、人権をインストールされていないんですよ。学校で教わるのは、せいぜい受験対策としての倫理くらい。家庭に丸投げされているのが実態じゃないでしょうか」

たとえば義務教育を例に取ると、子どもには「学ぶ権利」がある一方、子どもに「学ばせる義務」があるのは親の側です。けれど多くの人は、子どもに学ぶ義務がある、というふうにぼんやり理解している。義務と権利の主語が誰にあるのか、丁寧に整理されないまま大人になっていく。

「労働基準法を知らずに働くのって、交通ルールを知らずに車を運転するのと一緒なんですよ。でも、そう言われて初めてピンと来る人がほとんどです」

シングルマザーへの社会的視線、障がいのある方の雇用、共同親権をめぐる議論──井手口さんが現場で目にする数々の論点は、突き詰めればすべて「人権」という空白に行き着くと言います。

「『大変だね』では止まらないんですよ。人の権利を守るとはどういうことかを、ニュートラルな立ち位置から考えられる人がもっと増えないと、議論がいつまでも感情論で終わってしまう」

人権・ソーシャルワーク・DXなどの言葉が並ぶ福祉の変化を表すイメージ

学問の半分が、抜け落ちている

人権の発見と並んで、井手口さんがソーシャルワークの勉強を進めるなかで気づいたもうひとつの空白があります。それは、グローバル定義の末尾にさりげなく置かれた一語に関わる発見でした。

「ソーシャルワークは……実践に基づいた専門職であり学問である」

専門職であり、学問である。日本では、この後半が決定的に軽視されている、と井手口さんは指摘します。

「現場の福祉職の方々は、本当に優しくて真面目な方ばかりです。資格も持っていて、毎日たくさんの実践を積んでいる。けれど、自分たちがやっていることを言語化する訓練を、ほとんど受けてきていないんです」

支援記録は「あればいい書類」になっていく。「なぜ、この方にはこういう支援を選んだのですか」と尋ねても、「いや、なんとなくそう思ったから」で終わってしまう。井手口さんが現場で何度も目にしてきた光景です。

「実践はこれだけ積み上がっているのに、それが体系として残らない。理論として共有されない。ソーシャルワークは『実践と学問の両輪』だと定義されているのに、片輪走行になっているんですよ」

実践だけでは、技法は次の世代に受け継がれません。研修も、後進育成も、根拠ある支援も、すべて言語化された土台の上に成り立ちます。一方の日本では、ベテランのソーシャルワーカーが積み上げてきた支援の知恵が、退職とともにふっと消えていく。「もったいないんですよ。本当に」と井手口さんは繰り返します。

「資格を持っているのに、その資格のための資格になっている。記録が支援に活きていない。だから、せっかくの実践が組織にも社会にも還元されない」

この問題意識は、後の回で詳しく触れる「AIによる言語化支援」「ソーシャルワーク実践のデータベース化」といった構想に直結していきます。井手口さんが事業所内のDX推進にこだわる理由も、ここにあります。書類業務を圧縮するためだけではなく、言語化されないまま消えていく現場の知を、学問の側に引き上げるためです。

「消費される福祉」を書き換える

まちづくりは福祉だった。人権を考えたことがなかった。学問の半分が抜け落ちている。

井手口さんがソーシャルワークの勉強と現場の往復のなかで突き当たった、3つの空白です。それぞれは別々の発見のように見えて、実はひとつの問いに収束していくと、井手口さんは言います。

「日本では、福祉は『やばくなったら使うもの』だと思われているんですよ。生活保護とか、介護施設とか。確かにそれも福祉です。けれど、それが福祉の全部ではない」

グローバル定義に立ち戻れば、ソーシャルワークの対象は、パワーレスになった人だけではありません。社会変革、社会開発、社会的結束、エンパワメントと解放──これらは、社会のあらゆる領域に開かれた営みです。元気な人がもっと元気になるためにも、福祉の技術は本来、使えるはずだと井手口さんは言います。

「まちづくりだって福祉なんです。人のウェルビーイングを追求するすべての営みは、本来、ソーシャルワークの射程に入っています。それなのに日本では、福祉は『弱者支援』に矮小化されて、補助金で回すビジネスになってしまっている」

井手口さんが「消費される福祉」と呼ぶのは、この矮小化のことです。世界標準の定義に書かれている広大な射程を、日本社会は半分も使えていない。福祉職自身も、その射程を意識して働けていない。結果として、現場は疲弊し、想いだけで人を救おうとして空回りする。

「消費される福祉を、書き換えたいんですよ。福祉の技術はもっと広く社会に届くはずだし、届かせるべきだと思っています」

その「書き換え」を、井手口さんは思想として語るだけでなく、具体的な手段とともに動き始めています。AIとDXによる現場の解放、ビジネスとして回るソーシャルワークの実装、そして「触媒(カタリスト)」という新しい組織観──。

連載第2回では、想いだけでは人を救えない現実に対して、井手口さんがテクノロジーと経営の言葉でどう挑もうとしているかを掘り下げます。

地域の集まりの会場で受付に立つ人々

(第2回に続く)

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原体験を「希望」に変える。児童養護施設出身の24歳、中尾優太さんが「フェアにチャレンジできる日本」を目指し、政治家を志す理由。【後編】 https://chiehiro.com/nakao2/ Sat, 18 Apr 2026 13:59:42 +0000 https://chiehiro.com/?p=2211

「30年後、日本はあるか」。前編で辿った原体験は、いかにして揺るぎない信念に変わったのか。「フェアにチャレンジできる日本」を掲げ、いま街頭に立つ中尾優太さんの現在地。【後編】]]>

 【前編】では、温かい地域社会や恩師、祖母との出会いを通じて「自らの可能性」を切り拓き、政治家への使命感を芽生えさせるまでの軌跡を追った。【後編】では、その「萌芽」が揺るぎない「信念」へと変わり、政治家を目指す若き獅子の挑戦の全貌を聞いた。

大学3年生で、自らの使命として「政治家の道」を選ぶ。「30年後、日本はあるか」。

祖母の支援を受け、中尾さんは九州国際大学の経済学部に進学。大学でも生徒会長を務めた。そして大学3年生になり、人生最大の意思決定を行う。続けてきたサッカー審判の道と、政治の道。どちらを選択するのか——そのときに、閃光のように脳裏をよぎったのが、高校3年生の研修で気づいた、あの使命感だった。「サッカーの審判は、他の人でもできる。しかし、自分と同じ境遇を経験した人間が政治の世界に入ることには意味がある。私が経験してきたからこそ、絶対にやらなければならない、自分にしかできない仕事だ」という気持ちが固まった。

さらに、日本社会の未来にも目が向いた。「そもそもこれからの30年、サッカーの審判をずっと続けられるだけの日本を、保ち続けられるのか。…と自分に問うたとき、明確にイエスとは言えなかったんです」。人口減少、地域コミュニティの崩壊、若い世代の閉塞感。これまでの肌で感じてきた経験や課題は、30年後には確実に深刻化している。「当事者として生きてきた自分だからこそ、やれることがある」「日本の未来を、自分の手で変えに行く」その信念が宿った瞬間、もう迷いはなかった。

大学3年生の終わり頃、政治の現場を知るため、地域に根ざす地方議員の秘書を務めた。大学を1年休学して選挙戦に帯同。結果は、敗北だった。しかし、この1年半で学んだものは大きかったという。応援してくれる人の貴重さ、地元の声をどう汲み取るか、そして“選挙という戦いの大変さ”を肌で感じた。

神社へ続く石段と鳥居

「フェアなチャンス」が、すべての原点。——なぜ、いきなり国政ではなく地方議員なのか

中尾さんのビジョンとして、「まずは地方議員」を目指すという。なぜ、いきなり国政ではなく地方議会なのか。そこには、明確なロジックがある。「基礎自治体を経験していない政治家が、国政で子どもや若者の政策を語っても、絵空事になる。国がフレームをつくっても、実際に政策を動かすのは地方の人たちです。だからまずは地方議員で現場を知ってから、国政を目指したい」と。仮に地方議員を2期務めても、まだ33歳だ。若さを武器に、自らの足で現場を踏み固めながら、“自分にしかできない政治”の実現へと向かっていく。彼が掲げるビジョンは、取材中ずっと一貫していた。「生まれ育ちに関わらず、公平にチャンスを得られる社会。これをつくることが、僕の人生の仕事です」

機会の公平さ、経済的なサポート、施設を出たあとの保証人や住居の問題。若者が自分の人生の選択肢をちゃんと持てる社会——それは、中尾さん自身が「あったらよかった」と心の底から願ってきたものに他ならない。「子どもや若者が、自分の未来に希望を持てない社会は、続かないんです。モノが満たされた時代には、次に求められるのは『精神の豊かさ』だと思っています。日本はおそらく、世界のどこよりも早くその段階に入ります。だから、新しい社会のかたちを、僕たちの世代から提案していかなければなりません」 と、言葉に熱を込めた。

「地域社会の復活」。久山町で学んだことを、日本中に。

『精神の豊かさ』という抽象的なビジョンを、どう具体化するのか。中尾さんの答えは、意外なほど足元にある。「まず取り組まなければならないのは、地域社会の復活です」。幼少期の発達心理に関わる「愛着形成」。3〜4歳の時期に特定の大人との関係性のなかで築かれるこの心理的土台が、共働きが一般化した現代では、十分に形成されにくくなっているのだという。「昔の日本では、共働きでも地域社会が子どもを見てくれていました。駄菓子屋のおばあちゃんや、八百屋のおじさん、商店街の人たち。保護者以外にも、子どもたちを見てくれる大人がたくさんいた。いまは隣に誰が住んでいるかも分からない。子どもたちは、いったい誰に見守られているんでしょうか」

これは、中尾さんが久山町で肌身で感じたことそのものだ。挨拶してくれる大人たち、さつまいもなどを差し入れてくれた地域の人々、どこの児童でも「隣の子」として受け入れる町の空気。それは、子どもたちを守る「もう一つのセーフティネット」として機能していた。「たとえば、公民館で多世代が集まれる場をつくるのもいいでしょう。他愛もない話でいいので、顔を合わせる機会をつくる。そういうコミュニティをしっかり復活させることで、お金を配るだけでは担保できない『人が人を見守る社会』を取り戻せるはずなんです」。それは郷愁でも懐古でもない。中尾さんにとって、確かな実感に裏打ちされた、未来への処方箋なのだ。

青々とした田園風景

中尾さんが思い描く「豊かさ」の基準とは?

それは驚くほどささやかで、限りなく優しい。「僕個人の幸せは、テーブルにおかずが沢山並んだ時なんです。家や施設にいた頃、白ごはんはあっても、おかずが少なかったから。だから僕の幸せはそれくらいでいい。その分、他の人が私以上に幸せになる為に活動したいんです」。そんな理念こそが、中尾さんを突き動かす原動力なのだろう。

星を見上げた少年は、いま、街頭に立つ。——同じ境遇で育った人へ

取材の最後、彼に問いを向けた——同じような境遇で育った事をネガティブに捉える方も多い、なぜこんなにもポジティブに語れるのですか、と。「運がよかったんだと思います。久山町の人たちに育ててもらって、恩師に可能性を見出してもらって、祖母が現れてくれて、兄が見守ってくれていて。こうして自分のストーリーを話せるのは、周りの人に恵まれたおかげです」。

「運」と「ご縁」。中尾さんは、この二つの言葉を取材中に何度も使った。それは受け身の言葉ではない。運を呼び込むだけの行動を積み重ね、ご縁を活かすだけの誠実さを貫いてきたからこそ、そう語れるのだと、話を聞きながら感じずにはいられなかった。生まれ育ちは、選べない。でも、チャンスだけは、公平であっていい——。

それには、既得権益に凝り固まったやり方では変わらないのではないだろうか?そう水を向けると、「良いものは残し、時代に合わないものは自分たちの手で変革する」と。そのまっすぐな眼差しに宿っていたのは、若き獅子の反骨の炎だった。そこに、“アナーキーな保守”を感じた。

この国のどこかで、いまもかつての中尾少年と同じように夜空を見上げている子どもがいるかもしれない。その子が、いつか自分の夢をちゃんと描けるように。星に向かって叫んだ夜の不安が、未来への希望に変わるように。中尾優太さんの挑戦は、ここから始まる。

ユニフォーム姿でグラウンドに立つ中尾さん

【前編】はこちら。

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