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原体験を「希望」に変える。児童養護施設出身の24歳、中尾優太さんが「フェアにチャレンジできる日本」を目指し、政治家を志す理由。【前編】

12歳から18歳までを、児童養護施設で暮らした中尾優太さん(24)。現在、政治家への志を胸に抱き、着実に自らの道を開拓されている最中です。児童養護施設での経験を「地域に育ててもらった時間」と語る中尾さんの原体験や、想いなどを伺いました。

転々と流れた幼少期。その景色のなかに、母がいた。

中尾さんは2001年、福岡市に生まれた。物心がついた頃から引っ越しが多く、それが「友達を作るのが得意」という強みの礎となる。姉は幼い頃の医療ミスで重い障害を負い、兄も急逝している。その後、小学2年生で福岡へ。しかし、ある日を境に中尾さんは学校に行けなくなってしまう。母が、小さなすり傷を見て「いじめられている」と思い込み、登校を禁じてしまったのだ。

自らの意思による不登校ではなく、母を刺激しないための自宅待機。家のなかで、幼い中尾さんはやり場のない不安を一人で抱えるようになる。「小学4年生くらいから、漠然と『自分の人生、どうなるんだろう』と考えていました。普通の子どもなら、遊びたい盛りです。でも僕は、哲学みたいなことばかり考えていた気がします」と、当時を振り返る中尾さん。「母はシングルで、必死に育ててくれました。大変なことだらけだったはずなのに、あのとき僕を守ってくれたのは間違いなく母です」と、母への揺るぎない気持ちをにじませる。その気持ちは、昔も今も変わらない。

小学生の卒業間近に、運命が動。久山町が、僕を育ててくれた。

12歳の頃に事情が重なり、中尾さんは母と離れて暮らすことに。一時保護を経て向かった先は、福岡県糟屋郡久山町の児童養護施設「若葉荘」。人口およそ9,000人、山々に囲まれたのどかな町だ。「最初は山ばかりで怖かったんですが、住んでみたら、こんなに過ごしやすい場所はなかった」。12歳から18歳までの6年間のことを、「僕は、久山町に育ててもらった」——と。

町の人たちは、道ですれ違えば必ず挨拶をしてくれた。高校に入り、町の外に通学するようになって、初めて気づく。外の世界では、“挨拶は必ずしも返ってくるもの”ではなかったのだ。「自分が当たり前だと思っていたものが、実はそうじゃない。挨拶一つでも、町ぐるみで育てる文化が久山町にはあった。すごく、温かかったんです」。若葉荘は長い歴史を持ち、町民にとって「施設の子」は隣人だった。中尾さんが「保守」を自らの政治信条に据えるとき、その土台にあるのは「町で肌で感じた、地域社会の手触りそのものだ」と思う。

がむしゃらの努力で、半年で周りと同じ学力に。恩師がくれた「可能性」。

苦悩もあった。長年の不登校から、「学力が周りより、圧倒的に遅れている」ことに気付かされたのだ。小学校6年生で、2桁の割り算がやっとだった。しかし、そこで一人の教師と出会う。中尾さんの潜在能力を見抜き、「君なら必ず、半年で取り戻せる」と背中を押してくれたのだ。「過去の遅れではなく、私の『可能性』を真っ直ぐに信じてくれたことが、本当に嬉しかった」と当時の心境を明かす。とはいえ、半年で3年分の学力を取り戻す苦労や努力は尋常ではなかった。夏休みも冬休みも学校で自主学習し、宿題は「人の3倍も4倍も出してください」と自分から頼んだ。そして半年後、周りと同じ学力へと追いつく。「機会さえあれば、人は変われる」——のちに彼が掲げる「フェアなチャンス」という言葉の、最初の芽が、この半年間にあった。

── 「自分の色を、自分で決める」。

児童養護施設では、7~8人で一つのユニットを組んで暮らした。そこで中尾さんが直面したのは、集団生活ならではの処世術だった。「職員さんに上手に甘えられる子が、有利な側面がありました。同期の子たちは賢かったり、愛されキャラだったりしたのですが、僕は甘え方がわからず、最初は戸惑いもありました」。そこで、『自分の色を付けること』を模索する。選んだのは、学校生活や課外活動で輝く道だった。生徒会やサッカーなどで活躍。高校では生徒会長も務めた。

ただ、どうしても越えられない壁もあった。部活のチームメイトは、みな豪華な弁当を持ち、ほぼ全員が小学校からクラブチームに通っていた。もっと金銭的に恵まれていたら、早くから始めていたらと、機会の不平等を感じることもあった。しかし同時に、したたかに向き合う術も身に付けていく。高校で金銭的な壁にぶつかり部活を諦めた際、「審判としてワールドカップを目指す」という現実路線に舵を切り、たくましく活路を見出してみせたのだ。

── 高校3年生の半年、暗闇を彷徨ったそして祖母という、光に出会う

高校3年生。誰もが進路を決める季節。大学進学を強く望んでいたが、経済的な理由から、一度は諦めかけたという。公務員試験の勉強を重ね、自衛隊の試験に合格もした。それでも、“学びたい”という気持ちは消えない。ちょうどその頃、母の体調が思わしくなかった。身元の引受人をどうするか——現実的な問題に直面した中尾さんが、一縷の望みを託したのが、10年以上会っていない父方の祖母のことだった。児童相談所を通じて連絡を取ってもらった。実はずっと気にかけてきたが、さまざまな事情で直接接点を持つことができない状況だったのだ。「『老後のために貯めていたお金だけど、大学に行きたいなら、チャンスに使いなさい』と言ってくれたんです。あのとき祖母が現れなかったら、今の僕はいません」。

祖母と再会できたのは8月。進学の見通しが立ったのは、秋も深まる頃だった。その間、中尾さんは児童養護施設から帰る夜道、真っ暗な空を見上げて、急逝した兄に語りかけていたという。街灯もまばらな久山町の空には、いつもひときわ輝く星があった。「それが兄だと思っていました。兄の分まで、自分は2倍楽しんで生きなきゃいけない」。星に向かって、悔しさも不満も、声に出して話しかけた。真っ暗な夜道は、兄と自分だけの対話の空間だった。「僕は“運が良い”という確信があるんです。それはきっと、兄が一緒にいるからです」と中尾さんは、笑顔を見せる。

「政治家」という仕事がある──高校生で迎えた、一つの萌芽。

政治家という職業を意識し始めたのは、高校1年生のとき。ただこのときは「いつか国際審判員を引退したあとのセカンドキャリアとして」という漠然とした夢だった。政治家への距離感が一気に縮まったのは、高校3年生のときだった。中尾さんは、ある研修プログラムに参加する。ビヨンドトゥモロージャパン——「逆境は優れたリーダーをつくる」という理念のもと、困難な境遇の若者にリーダーシップ開発の機会を提供する。集まったのは、全国の同世代の若者たち。一人ずつ、40〜50分かけて自分の生い立ちを語る。最終日のプレゼンのテーマは「自立」。審査員には、国の大臣経験者ら錚々たる顔ぶれが並んだ。中尾さんのチームは、最終的に優勝した。しかし心に深く刻まれたのは、優勝の事実ではなかった。

「すごく優秀で、頭もよくて、本来ならいろんな可能性がある子たちが、『でも私、お母さんがいるから離れられなくて』と本音をこぼすのを、何人も聞いたんです。傍から見たら離れたほうが絶対に幸せになれるのに、家族だから離れられない。この深い対話のなかで、夢を少しずつ諦めていく同世代のリアルな葛藤を目の当たりにしました」。これまでも、同じ光景を見てきた。やりたいことを手放していった友人たちの顔が、脳裏によみがえる。「子どもは、誰かが手を差し伸べてくれないと、自力では抜け出せないんです」。このときの強烈な光景が、のちに人生を決定づける原体験として心に刻まれた。

【後編に続く】