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原体験を「希望」に変える。児童養護施設出身の24歳、中尾優太さんが「フェアにチャレンジできる日本」を目指し、政治家を志す理由。【後編】

 【前編】では、温かい地域社会や恩師、祖母との出会いを通じて「自らの可能性」を切り拓き、政治家への使命感を芽生えさせるまでの軌跡を追った。【後編】では、その「萌芽」が揺るぎない「信念」へと変わり、政治家を目指す若き獅子の挑戦の全貌を聞いた。

大学3年生で、自らの使命として「政治家の道」を選ぶ。「30年後、日本はあるか」。

祖母の支援を受け、中尾さんは九州国際大学の経済学部に進学。大学でも生徒会長を務めた。そして大学3年生になり、人生最大の意思決定を行う。続けてきたサッカー審判の道と、政治の道。どちらを選択するのか——そのときに、閃光のように脳裏をよぎったのが、高校3年生の研修で気づいた、あの使命感だった。「サッカーの審判は、他の人でもできる。しかし、自分と同じ境遇を経験した人間が政治の世界に入ることには意味がある。私が経験してきたからこそ、絶対にやらなければならない、自分にしかできない仕事だ」という気持ちが固まった。

さらに、日本社会の未来にも目が向いた。「そもそもこれからの30年、サッカーの審判をずっと続けられるだけの日本を、保ち続けられるのか。…と自分に問うたとき、明確にイエスとは言えなかったんです」。人口減少、地域コミュニティの崩壊、若い世代の閉塞感。これまでの肌で感じてきた経験や課題は、30年後には確実に深刻化している。「当事者として生きてきた自分だからこそ、やれることがある」「日本の未来を、自分の手で変えに行く」その信念が宿った瞬間、もう迷いはなかった。

大学3年生の終わり頃、政治の現場を知るため、地域に根ざす地方議員の秘書を務めた。大学を1年休学して選挙戦に帯同。結果は、敗北だった。しかし、この1年半で学んだものは大きかったという。応援してくれる人の貴重さ、地元の声をどう汲み取るか、そして“選挙という戦いの大変さ”を肌で感じた。

「フェアなチャンス」が、すべての原点。

中尾さんのビジョンとして、「まずは地方議員」を目指すという。なぜ、いきなり国政ではなく地方議会なのか。そこには、明確なロジックがある。「基礎自治体を経験していない政治家が、国政で子どもや若者の政策を語っても、絵空事になる。国がフレームをつくっても、実際に政策を動かすのは地方の人たちです。だからまずは地方議員で現場を知ってから、国政を目指したい」と。仮に地方議員を2期務めても、まだ33歳だ。若さを武器に、自らの足で現場を踏み固めながら、“自分にしかできない政治”の実現へと向かっていく。彼が掲げるビジョンは、取材中ずっと一貫していた。「生まれ育ちに関わらず、公平にチャンスを得られる社会。これをつくることが、僕の人生の仕事です」

機会の公平さ、経済的なサポート、施設を出たあとの保証人や住居の問題。若者が自分の人生の選択肢をちゃんと持てる社会——それは、中尾さん自身が「あったらよかった」と心の底から願ってきたものに他ならない。「子どもや若者が、自分の未来に希望を持てない社会は、続かないんです。モノが満たされた時代には、次に求められるのは『精神の豊かさ』だと思っています。日本はおそらく、世界のどこよりも早くその段階に入ります。だから、新しい社会のかたちを、僕たちの世代から提案していかなければなりません」 と、言葉に熱を込めた。

「地域社会の復活」。久山町で学んだことを、日本中に。

『精神の豊かさ』という抽象的なビジョンを、どう具体化するのか。中尾さんの答えは、意外なほど足元にある。「まず取り組まなければならないのは、地域社会の復活です」。幼少期の発達心理に関わる「愛着形成」。3〜4歳の時期に特定の大人との関係性のなかで築かれるこの心理的土台が、共働きが一般化した現代では、十分に形成されにくくなっているのだという。「昔の日本では、共働きでも地域社会が子どもを見てくれていました。駄菓子屋のおばあちゃんや、八百屋のおじさん、商店街の人たち。保護者以外にも、子どもたちを見てくれる大人がたくさんいた。いまは隣に誰が住んでいるかも分からない。子どもたちは、いったい誰に見守られているんでしょうか」

これは、中尾さんが久山町で肌身で感じたことそのものだ。挨拶してくれる大人たち、さつまいもなどを差し入れてくれた地域の人々、どこの児童でも「隣の子」として受け入れる町の空気。それは、子どもたちを守る「もう一つのセーフティネット」として機能していた。「たとえば、公民館で多世代が集まれる場をつくるのもいいでしょう。他愛もない話でいいので、顔を合わせる機会をつくる。そういうコミュニティをしっかり復活させることで、お金を配るだけでは担保できない『人が人を見守る社会』を取り戻せるはずなんです」。それは郷愁でも懐古でもない。中尾さんにとって、確かな実感に裏打ちされた、未来への処方箋なのだ。

中尾さんが思い描く「豊かさ」の基準とは?

それは驚くほどささやかで、限りなく優しい。「僕個人の幸せは、テーブルにおかずが沢山並んだ時なんです。家や施設にいた頃、白ごはんはあっても、おかずが少なかったから。だから僕の幸せはそれくらいでいい。その分、他の人が私以上に幸せになる為に活動したいんです」。そんな理念こそが、中尾さんを突き動かす原動力なのだろう。

星を見上げた少年は、いま、街頭に立つ。

取材の最後、彼に問いを向けた——同じような境遇で育った事をネガティブに捉える方も多い、なぜこんなにもポジティブに語れるのですか、と。「運がよかったんだと思います。久山町の人たちに育ててもらって、恩師に可能性を見出してもらって、祖母が現れてくれて、兄が見守ってくれていて。こうして自分のストーリーを話せるのは、周りの人に恵まれたおかげです」。

「運」と「ご縁」。中尾さんは、この二つの言葉を取材中に何度も使った。それは受け身の言葉ではない。運を呼び込むだけの行動を積み重ね、ご縁を活かすだけの誠実さを貫いてきたからこそ、そう語れるのだと、話を聞きながら感じずにはいられなかった。生まれ育ちは、選べない。でも、チャンスだけは、公平であっていい——。

それには、既得権益に凝り固まったやり方では変わらないのではないだろうか?そう水を向けると、「良いものは残し、時代に合わないものは自分たちの手で変革する」と。そのまっすぐな眼差しに宿っていたのは、若き獅子の反骨の炎だった。そこに、“アナーキーな保守”を感じた。

この国のどこかで、いまもかつての中尾少年と同じように夜空を見上げている子どもがいるかもしれない。その子が、いつか自分の夢をちゃんと描けるように。星に向かって叫んだ夜の不安が、未来への希望に変わるように。中尾優太さんの挑戦は、ここから始まる。

【前編】はこちら。