「身近で気軽に来られる居場所づくり。こんな場所が社会全体にたくさんできたら」
明日香さん(26)は、揺るぎない笑顔でこう答えた。
取材場所は、彼女が切り盛りする「明日カフェ」。昼はカフェとして、夜はバーとして営業する。支援者も一般の客も、コーヒーやお酒を目当てに扉を開ける。そしてその同じ空間に、心に傷を持った子どもたちが、ふらりと立ち寄る。実際、この取材の最中にも顔なじみの若者が入ってきた。彼女は話を止めて「帰るとき教えてね」とだけ声をかけ、またこちらに向き直った。それがこの店の日常らしい。
店のどこにも「支援施設」の看板はない。カウンセリングや相談支援の看板を掲げれば、専門職として料金を取らなければ成り立たない。お金を払える家の子しか来られなくなる。だからただのカフェとして開けておく。カウンセリングルームの扉は重くても、カフェの椅子には誰でも座れる。支援は、支援の顔をしていないときに一番届く。それが彼女の確信であり、「明日カフェ」の根幹だ。誰が支援する側で誰がされる側なのか、外からは見分けがつかない。見分けがつかないことに、意味がある。
こうした活動の背景には、強烈な「自分自身も当事者だった」という原体験がある。その原体験が、彼女の情熱の土台になっている。
居場所を失った優等生——学校が安全な場所でなくなるとき
小学生の頃の明日香さんは、全校生徒の前で表彰されるような優等生だった。それが中学1年で一変する。勉強についていけなくなり、成績は学年最下位へ。積み上げてきた「認められる自分」が音を立てて崩れた。親子関係にも深く悩み、家にも、学校にも、居場所がない。行き場を失った彼女は家の外をさまよい、今の「警固キッズ」たちと同じような夜を過ごした。
限界は、心より先に体に来た。息ができなくなって駆け込んだ内科で告げられたのは、「ここではない。精神科です」という言葉。10代前半の少女に必要だったのは、診断名である以上に、逃げずに向き合ってくれる大人だった。
変化は「先生」との出会いから始まった
きっかけは中学2年のとき、父親が家に連れてきたカウンセラーだった。先生は彼女ひとりではなく家族全員に向き合い、それを毎週、続けた。
このカウンセラーは、傾聴するだけの人ではなかった。「今週あったこと」「あなたはどう思いますか?」と問い、間違っていたら「それはズレていますよ」とハッキリ告げる。物事の捉え方の歪みから逃げも隠れもさせず、しかし突き放しもしない。真正面から、彼女のために叱ってくれた。
大人に「怒られた」経験なら、それまでにいくらでもあった。だがその多くは、大人の都合や体面のためにすぎないと彼女は感じていた。しかし先生は違った。目を見て、本気で向き合って叱る。ごまかしは許さないが、追い詰めることは絶対にしない。同じ「叱る」でも、まるで別の行為だった。今も彼女の胸に残る言葉がある。良くない行動を「知らなかったから」と言い訳したとき、先生はこう言った。
「『無知は罪だ』って。その言葉が一番響いて、今も覚えています。知らないことで悪いことをし続けるのは良くないんだって、そこで初めて思えた」
この一言で人生が変わった――という話ではない。彼女自身が、それをきっぱり否定する。
「具体的にこれがあったから変わった、じゃないんです。本当に毎週の積み重ねで変わっていけた。徐々に、です」
急激に変わったわけではない。徐々にだ。揺り戻しのような経験もした。カウンセリングが途切れ、状態が悪化した時期もあった。それでも毎週の積み重ねは続き、頑なだった心の氷は少しずつ溶けていった。そして崩れかけていた少女に、生まれて初めての夢ができる。先生みたいになる、という夢だ。
「受けたくても、受けられない人がたくさんいる」——居場所をつくると決めた高校1年
居場所をつくると決めたのは高校1年、支援を受け始めて3年目のときだった。きっかけは、周りの友人たちだ。当時の彼女の周りには、親の恋愛に巻き込まれて不安定な生活を送る子、家庭の事情で進学させてもらえなかった子、身体的・心理的な虐待を受けていた子など、家庭に困難を抱えた友人ばかりが集まっていた。自分は毎週カウンセラーに向き合ってもらえている。友人たちには、その大人がいない。
「私は偶然この親のもとに生まれて、お金があったから支援を受けられた。でも、受けたくても受けられない人がたくさんいる。それに気づき出した頃に、この夢を持ちました」
救われた側と救われない側を分けたのは、本人の努力ではなく偶然だった。この認識が、彼女の活動のすべての出発点にある。だから無料でなければならない。だから専門の看板を掲げてはならない。冒頭に書いた明日カフェの設計は、高校1年のこの決意から一直線につながっている。
学年ビリからの国家資格——社会福祉士になるまで
夢はできた。だが現実は厳しい。中学1年から勉強を捨てていた彼女の学力では、福祉を学ぶ大学など到底届かない。高校2年で「このままでは大学に入れない」と突きつけられ、そこから彼女は走り出す。教師たちに頭を下げてプリントをもらい、自学を始めた。上位に届いたわけではない。それでも最下位からは抜け出し、学年の中ほどまで戻した。懸命に動いてくれた教師たちの後押しもあり、大学への道がつながった。
大学では4年間、すべての授業を最前列で受けた。多い時期は1日15時間、机に向かった。そして社会福祉士と精神保健福祉士、二つの国家資格を取得する。中学時代は学年最下位だった少女が、である。夢が学力を追い越した4年間だった。

挫折も、道のうち
もっとも、資格を取れば支援者になれるわけではなかった。卒業後に就職したのは、傷ついた子どもたちが入所する施設。そこで彼女は打ちのめされる。子どもたちは、自分が受けてきた傷を、そのまま彼女にぶつけてきた。「この子はどんな環境にいたのか」考え出すと夜も眠れず、やがて出勤できなくなった。適応障害と診断され、半年間引きこもった。
「支援者になりきれなかった。入り込みすぎたんです。でも、あの頃の自分からしたら、あれも正解のルートだったと思ってます」
挫折を失敗と呼ばず、道のうちに数える。この距離の取り方も、揺り戻しを含めて回復と呼ぶことを教えた先生の流儀に、どこか通じている。
その後はNPOの居場所づくり活動に加わり、繁華街に集まる子どもたちと関わった。スクールソーシャルワーカーとして学校現場にも通算3年間立った。そして活動に共感し、資金面で支えてくれる人との出会いに恵まれる。今年度からは他の仕事をすべて辞め、明日カフェ一本に絞った。高校1年の夢は、10年かけて現実の店になった。
受け止める。ただし、ダメなことはダメ——子どもとの向き合い方
明日カフェでの彼女は、子どもを叱り飛ばすことをしない。まず受け止める。彼女には持論がある。甘えは、練習だというのだ。甘えていい時期にきちんと甘えられた人は、やがて自立できる。逆にその時期に甘えさせてもらえなかった子は、人との距離の取り方を練習できないまま大人になる。目の前で不器用に甘えてくる子どもたちは、後者だ。
「だから一回、全部受け入れたい。でも、ダメなことはダメって言ってます」
約束の時間を破る子には、ここでは私との約束だから許されても、社会で同じことをすれば自分が傷つくと伝える。危うい方向に流されそうな子には、頭ごなしに否定せず、結局苦しむのは自分自身であり、周りも傷つくのだと語りかける。受け止めはするが、ごまかしは見逃さない。どこかで聞いた流儀である。彼女が中学2年から毎週向き合ってもらった、あの流儀だ。彼女はいま、かつて自分が救われたのと同じ方法で、子どもたちの前に座っている。
優しさとは何かと問うと、彼女は長く考え込んだ末、自分を優しいとは思わないと前置きして、こう言った。
「ちゃんと叱るのは、甘さじゃなくて優しさだと思ってます」
希望を捨てず、願い続ける——子どもの居場所を続けるということ
子どもたちに頼られ、寄りかかられる毎日は、軽いものではない。しんどくて動けなくなる日があることを、彼女は隠さない。それでも続けてこられたのは、かつて先生ひとりだった「向き合ってくれる大人」が、大人になるにつれて増えていったからだ。彼女の夢を応援し、支える人たちがいる。今度は彼女が、誰かにとってのその大人になっている。
目指す社会を聞くと、迷いのない答えが返ってきた。
「私の理想は、虐待がなくなった社会。それは無理かもしれません。だけど私は、ずっと無理なことを願ってるので。虐待がない社会を目指して行動します」と。
守りたいのは、選択肢の少ない子どもたち。お金も経験も知識も人脈もない子どもたちに選択肢を増やすのは大人の責任だと、彼女は言う。冒頭の「こんな場所が社会全体にたくさんできたら」という言葉は、その責任を、社会のもっと多くの大人と分かち合いたいという呼びかけでもある。
先生との交流は今も続いている。壁にぶつかれば会いに行き、教えを持ち帰る。彼女にとって先生は、今もなお「師匠」であり続けている。
取材を終える頃、店にはまた新しい客が入ってきた。コーヒーを飲みに来た客なのか、居場所を探しに来た子どもなのか、見分けはつかない。つかないままでいい。かつて居場所を失った少女がつくったこの店は、今日も誰にでも、同じ顔で扉を開けている。
